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【ランニング日記 2/15(月)〜2/19(金)】自分にできること・できないこと。自分の仕事の先に見るもの。

2/15(月)

信じられない一言を言いますが、

暑い。

外に出た瞬間ちょっと身体が混乱した。いつもの通り「さぶっ」と言う心算はしっかりした上で外に出たのだ。そういうものだ、と身体も頭もしっかり思い込んでいる。寒い寒いとぶつぶつ文句を言いながら走るのが冬のランニングというものだ。(そうだっけ)

それなのに私を包んだ空気は、なんとも心地よくふわっと風が包み込むような、言ってみればそれは、春先の神宮のような、そんな空気だったのだ。想定していたものと違いすぎてつまずいてこけそうになった。いやほんとうに。

そうかもう2月なのか、と、私は改めて思う。忘れていたよ、もう2月なんだよ。あの原稿もその原稿も全く進んでいないけれどももう2月も半ばなのだ。泣きたい。

ともかく、確実に、春は近づいている。もうムートンのコートもしまう季節かもしれない。いやそれは春先の神宮に必要だった。(寒いんだよ4月の神宮…)

6時ぴったりに走り始めると、1キロも待たず暑くなり、ジャケットを脱ぐはめになる。暑い。暑いよ。

夜のうちに雨が降ったようで、地面が濡れている。新しい靴から水がどうか染み込んできませんようにと祈るような思いで走る。(水に濡れると靴は傷むし走りづらいしほんといいことないのだ)

新しいシューズの魔法も消えかけてくる頃だけれど(もう二週間くらいはいている)、でもとにかく今のところ、「走ること以外」に意識を向けて走る余裕はまだあるみたいだ。ここのところずっと、仕事や書くことについて考えながら走っている。

こないだtwitterで見かけた、育児しんどい派vs育児楽しい派について、noteに書こうかな…と思いながら走る。書きたいnoteは山のようにあるのだけれど、どれも下書きのまま終わっている。出していきます。

10キロを今日も悪くないタイムで走る。先週よりは遅いけれど。ただ、走りながら膝あたりに少しだけ痛みを感じたので、ちゃんと注意してみてあげよう、と思う。いつもありがとうね、私の足。

2/16(火)

昨日は午後から撮影で帰るのが遅くなり、そこから少し仕事をしたりなんだりで寝るのが少し遅くなった。ところが今朝はちゃんと目が覚める。ふむ。眠い。

まあでも今日は5キロの日だ。私としては、今日が火曜日のことが心底信じられないけれども(せめて木曜日だろうと思う)、致し方ない、火曜日だというならそういうことにしておこう、と思う。

昨日、息子のことで色々と思うことがあり、走りながらあれこれ考える。親としてやるべきこと…とか、そういう考え方をついしてしまうけれど、まず大事なのは、一対一の個人として向き合うことだよな、と思う。大人であるとか、親であるとか、そういうのはおいておいて、自分はまずどう感じているのか、ということを伝えていくこと。

私という不完全な人間が「親として」「教えられる」ことなんて本当のところ全くなくて、できることは多分、一人の個人として向き合う時の、その関係性の中で伝えていくことだけなのだろう、と思う。その中で息子が、人と人はこういうふうに関係性を結んでいくし、こんなふうにすると傷つけ傷つけられる、そういう肌感覚を知っていくこと、それだけなのだろうと思う。

そして息子と向き合うことで私もまた、自分の中のあらゆるものと、向き合っていくのだろうなと思う。

こうして日々同じ空間で暮らしていくのも、実はあと10年もないかもしれない。それは人生で見ると、ほんの一瞬のことなのだ。

2/17(水)

「終わったら絶対宿題やるから、1時間だけ桃鉄3年決戦やろう!!!」と息子にせがまれ、今日も甘い母であるところの私は(というか桃鉄がやりたかった私は)その誘いにほいほいと乗り、夜までやった。出だしは好調だったのに、貧乏神を避けるために赤マスに止まったら「なななんと!赤マスのマイナスが10倍になるそうです!」とかなんとか言われ、一気に37億円を奪われた。そんなもん貧乏神の方がまだマシである。そこから一気に地の底である。順位は急降下。終わってみればぶっちぎりの最下位。どこのヤクルト・スワローズなんだいったい。

いやまあとにかく、そうやって桃鉄をやっていてお風呂に入るのが遅くなり、ついでに寝るのも遅くなったため、目覚ましを鳴らす時間を少し遅くした。明らかに睡眠が足りていなくて身体が疲れている実感があるので、そういう時はまず睡眠だ。とにかく寝るのが大事。桃鉄してる場合じゃない。やるけど。

そんなわけで今日は少しゆっくり目に起きる。5:45頃にはもう、外が少し明るくなり始めていた。だいぶ夜明けの時刻も早くなってきたみたいだ。

10キロ走る時間はないので、ギリギリこどもたちの学校の時間には間に合う時間に帰ってこられる8キロを走ることにする。

ところが、今日に限ってめちゃくちゃ風が強い。向かい風に必死で立ち向かっていく形相になる。私はT.M.Revolution か。凍えそうな季節に君は愛をどうこういうのか。泣きたい。本当に泣きたい。

どんどん遅くなるタイムを見ながら、そうは言ってもこの風なのだから仕方がない、と、もはや目標を「足を前に出す」ことに定める。

風が強い日というのは、この「風に立ち向かう」というだけでめちゃくちゃ疲弊する。それだけで1キロ分くらい走った気分になる。それならもう5キロだけにしておいたって十分なんじゃないのか。こんな風の中わざわざ走る必要もないだろうに。

けれども「雨の日も風の日も」とはよく言ったもので、結局毎日走ることを日課にしていると、当然雨の日も風の日も出てくる。一年で見ると暑い日も寒い日もある。それを走るからこそそれは「毎日走る」と言えるのだ。よくわからないけど。

とにかく私はT.M.Revolutionよろしく、必死に向かい風に立ち向かってゆく。すると急に、本当に急に、風が止む瞬間が訪れる。

風と格闘した結果、体は疲れ果てているはずなのだけれど、それが良い準備運動になったのかなんなのか、身体が開放されたように軽くなる。そこから少しずつタイムを早め、なんとか子どもたちが学校へいく時間には間に合った。

風の抵抗のように、ちょっとした負荷というのは必要なのかもなあ、と、少し思う。そういえば子供の頃、前屈するときに思いっきり誰かに身体を押してもらい、それに抵抗するように体を持ち上げようとして、そのあと前屈するといつもよりも深くかがめたことを思い出す。程よい抵抗、程よいT.M.Revolution、これは必要なのかもしれない。

2/18(木)

5時少し前に目が覚めたのに、二度寝して起きたら5:40。たいへんだ寝坊です。昨日8キロしか走れなかったので、今日は5キロの日だけれども10キロにしようか…と、一度起きた時は考えていたのだけれど、まあこれはまた間に合わないので今日も8キロ走ることにする。

6時過ぎに家を出ると、もうすっかり空が明るくなり始めている。それでも今日はまた寒い。冬の寒さが戻ってきたような感じ。その寒さに震えながら、冬の明るい時間が長くて夏の明るい時間が短ければいいのに、と思う。そうすれば夏は比較的涼しい中走れるし、冬は比較的暖かい時間に走れる。

でももちろんそんなのは無理な相談で、だからと言って怒り散らすことも泣き喚くことももちろんない。「それはそういうものだ」と心から納得しているからだ。人間にはどうしようもないことだ、と。

これは極端な例だけれど、こういう、自分の手に負えることと負えないこと、をしっかり見極めておくことは大切だな、と思う。感染症が流行した時、ワクチンを作ることは私にはできない。感染を100パーセント避けることもおそらくできない。そしてその影響を全く受けないこともできない。じゃあ、自分に本当にできることってなんなんだろう。そういう考え方をしていたいな、と思う。

途中、そういえば最近見かけないな、と思っていた「キロ3キロマン」とすれ違う。よかった、元気だった。全然知らない人だけれど。

家に近づいてきたとき、キロ3キロマンは颯爽と私を追い抜いて、あっという間に見えなくなった。なんと言ってもキロ3キロ(体感)で走っているので、例えば私が5キロ走る間に、キロ3キロマンは約10キロを走るわけである。えらく離れた場所ですれ違ったとしても、あっという間に私は追い抜かれる。速い、キロ3キロ(体感)マン。

2/19(金)

5時20分頃に目を覚ますと、うっすらと空が明るみ始めていた。ここにきて急に、本当に急に夜明けが早くなった。じわじわじわじわ、ジリジリジリジリ早めていき、最後にがっと早くする作戦らしい、太陽。でももちろんこちらとしては、そういう太陽側の姿勢に文句をつけたいわけではない。太陽さんがそうしたいのであればどうぞしてください、という待ちの姿勢でしかない。当たり前だ。こちらは太陽に物申す立場ではない。

そんなわけで、今日になって急に早くなった夜明けの空の下、走り始める。ここのところ3日くらい寒い日が続いていて、久々に公園の池の水に氷が張っていた。気分としてはだんだん春を感じ始めたけれど、2月というのはまあまあ、寒い。

でもなんとなく、きっとこれから暖かくなるのだろう、という予感めいたものは感じる。本当に真冬の真っ只中は、これから朝が早くなることも、気温が上がることも、全然信じられなかったのだ。ただ耐えるしかない、という感じだった。それが少しずつ、春の希望みたいなものを感じ始める。

それは少しだけ、私の背中を押す。一歩一歩、足を前に出す。いつもより少し速く。春の予感があるうちに、少しだけ。

今日も走りながらあれこれと、仕事の企画を考える。誰かに「認められる」仕事をするんじゃなくて、誰かを楽しませる、誰かの気持ちを軽くする、そういう仕事をしよう、と改めて思う。

こどもたちが保育園児だった頃の運動会で、いつも先生たちは、ゴールでこどもたちのことだけを見てくれていた。そこで、ゴールに向かって、というかおそらく、先生たちに向かって走ってくる、そのこどもたちの姿だけをしっかり見ていた。保護者の顔や、園長先生の顔や、区のえらい人たちの顔じゃなくて、こどもたちの顔を。

それは、仕事の本質なのだ、と思う。自分の仕事は誰のためのものなのか。仕事の先にいるのは誰なのか。見つめるのはなんなのか。そういうのを、見失わずにいたいな、と、そう思う。

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