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【8/24巨人戦●】上がったり下がったり、そういうものだ。

「強かったヤクルトの面影は、すっかり影を潜めている。」

と、始まるコラムを、起きがけのぼおっとした頭で読む。ちくりと感じる痛みがある。いやいや、強かったヤクルトの前は弱かったヤクルトじゃないか、と、自分に言い聞かせるように思うけれど、まあでもやっぱり、上がって下がってのジェットコースターは、それなりにへこむものである。「いやわかってたけどね」と、また強がりみたいにつぶやく。

野球は結果論だ、みたいなことをよく耳にする。まあ、そうなのかもしれない。そんなことを言えばこの世のすべては結果論のような気もする。そのときの選択が合っていたか違っていたかなんて、終わってみなければわからない。

あのとき、ピッチャーを変えていなければ。あのとき、サンタナじゃなくて丸ちゃんが打球を処理していたら。あのとき、前身守備をしていなければ。あのとき、べつのボールを選んでいたら。どれも、あとからはなんとでも言えることなのだ。それが成功していたか失敗していたかは、結局のところ誰にもわからない。

だけど、「あの時打てていたら」「あの時打たれていなければ」というのは、それは個人のプレーにかかるものなので、「結果論」というわけでも、ない。自分が打てていたら1点が入っていた場面、自分が打たれなければ1点を防げた場面。それはわかりやすく、その試合に存在していて、たぶん打てなかった本人を、打たれた本人を、鋭く刺す。

ベンチで放心したように前を見るむねちゃんを見ながら思う。「強かったヤクルトの面影は、すっかり影を潜めている。」という、コラムの1文は、ただのファンの私の心にすら、ずどんと響く。去年うまくいったことが今年はうまくいかない、それは、その事実を背負う個人にとってはもっと、もっと、しんどいものだろう。

ここで1本出ないか・・・と、今日も私はため息をつく。うまくいかないことスパイラルにまた陥って、なんかもう、どこにも浮上のきっかけが見つからないように思えてくる。こういうの知ってるなあ、いつものヤクルトだよなあ、と、もう投げやりにそんなことを思ったりもする。まあ、この2年間がうまくいきすぎたんだよな、と、言い聞かせたりもする。

でも、やっぱりここから、這い上がる姿を私はまた、見たいと思っているのだと思う。弱くても弱くても、何度だってそこに戻ってきたヤクルトたちを、私は見てきた。シーズンが終わって、ファン感でいつもの「最下位に沈みましたが」という一言があって、でも来年は優勝を目指して!という、根拠のなさそうなせりふを聞いて、でもそうだそうだ!優勝だ!なんてやけっぱちみたいに思って、でもそうしたらそのうち本当に優勝して、みんながにこにこ笑って、てっぱちが崩れ落ちるように泣いて、むねちゃんが笑って、高津さんが笑って、そういうところを、また見られたらいいなと、思っているのだと思う。好きな人たちがうれしそうに笑う姿というのは、とてもいいものだから。

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