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EP6 ジェイソン

EP6 ジェイソン

狩猟の夢を見る。
狩られるのは自分だ。
浅い眠りだ。
激しい眼球運動を伴うREM睡眠だ。
ここへ無理矢理連れてこられてきてから1日に9時間か10時間しか眠れないでいる。
1000年も前に打ち捨てられエーゲ海に臨む墓場のぬかるんだ地面に生き埋めにされ私の血肉を吸って丸々と肥え太った蛆虫の体内がピンク色に発光しているのを見たのを夢から覚めた今でもはっきり覚えている。
ここはいったい何処だ。
死臭と腐臭と酸化したビール酵母の臭いとニコチンタールの臭いと発情期にある人間の男女の汗腺から分泌されるフェロモン臭で咽せ返るような狭っ苦しい部屋の四隅には哺乳動物には有害極まりない胞子をこの季節になると盛んに放出する危険な菌類が増殖し始めている。
花冷えの季節だ。
夜明け前だ。
踵の高い靴を履いた若い女が足早に赤い鳥居の門を潜り抜け消費期限が3週間以上も過ぎたマレーシア産の合挽き肉で餃子や肉団子を作っては高値で売っている精肉店の向かいに建つ4階建ての集合住宅の外階段を息せき切らせて上がり始めた音が私には聞こえる。
その足音や息遣いは私が生まれた時からすっかり聞き馴染んだものだ。
女と言っても年が明けれは人間で言う還暦を迎える私からすればほんの小娘だ。
小娘のくせに産みの母親から嫌味たっぷりにホルスタインと揶揄されていたほど豊かで美しい乳房に一刻も早く強く抱きしめられたいと私は心から願う。
そのうち鍵をかけられたことがただの一度もない玄関の扉を小娘が開けてただいまと言う。
小娘よりもずっと髪を長く伸ばした痩せっぽちの男が咥え煙草で風呂場から出てくる。
男は豚革のブーツに黴臭い毛皮のコートの下は全裸という奇妙な格好で飲み干した瓶ビールで小刻みに壁を叩きながら小娘に近づいてゆく。
濃い色をした口紅の輪郭が中年男のひび割れた唇か何かを強く押し付けられた為に擦れて滲んでぼやけていることに気づくが無言で下着が透けて見えてしまいそうなほど薄い素材のドレスの裾を捲り上げて腰を突き出す。
小娘が玄関のたたきに跪いて両手であまり肉ずきの良くない男の尻を掴んで強く引き寄せる。
小娘が私にはまったく聞き覚えのない吐息を漏らしだす。
私は再び安っぽい折り畳み式ベッドの下に身を隠して身体を丸めて眠りにつこうと努力する。
しかしやがて男が小娘を打つ音がしてわたしは目を覚ましてしまう。
髪の毛を鷲掴みにされた小娘は最初抵抗の声をあげていたがやがて大人しく無抵抗になりベッドに倒れ込むと繰り返し殴られた側頭部の耳の上のあたりを手で押さえながら眠り込んでしまう。
そのうち危険な兆候のいびきをかくようになる。
男は皮が裂け血が流れ出ている自らの拳を無表情に見つめて頭蓋骨の硬さを思い知る。
夜に朝食を喰らう。
世界基準に従わず生きる。
群れずに戦う。
その点に限ってこの男と私は同類だ。
しかしこの男の朝食といえば蛋白質がまったく摂れない白い錠剤だ。
それを一度に何十錠も飲む。
あるいは何百錠も飲む。
そしてパプロフの犬の法則に従い厳しく調教された象やチンパンジーの方がもっと上手に描けそうな絵を心身共に尽き果てベッドに崩れ落ちそうになるまで描き続けて過ごす。
この男は脳味噌や内臓だけではなく精神まで腐っている。
自分が絵や文章の仕事に専念出来る環境を整えてくれる女を常に探し求めているだけである。
そして自ら望んで死にかけている。
自分に忠実に生きる。
そういう意味ではこの男と私は同類だ。
私は小娘の安否が気になりベッドの下から首だけ伸ばして鳴き声をあげる。
目を覚ませと繰り返し鳴き声をあげる。
男が私本来の名前ではなく何度抹殺されても蘇っては不道徳な若者たちを殺戮して回る連続大量殺人鬼の名前でわたしを呼ぶ声がする。
男が梱包用のビニール紐を私の首輪に巻きつけようとするので私は咄嗟にベッドの下の暗がりに逃げ込み全身の毛を逆立てて牙を剥き鉤爪を伸ばして低い唸り声をあげる。
男は私の捕食対象でしかない昆虫や両生類くらいしか飼育したことがないので思わずたじろぎ手を引っ込めてしまう。
にも関わらず猫を飼えば何とかなると思う。
酒も薬もやめられると身勝手な思い込みをする。

酒も薬もないと絵が描けない男はスケッチブックにこう殴り書く。

俺にとってお前は特別な存在だ。
もう2度と顔も見たくない。
とっとと扉を開けて夜の果てまで消え失せろ。

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