EP9 咳をするのはやめましょう

EP9 咳をするのはやめましょう

まるでエジプトの木乃伊か死後硬直した裸の踊り子みたいに一昼夜も微動だにせずある意味退屈極まりない寝姿の彼女が突然むっくり起き上がって激しく咳き込んで止まらないので俺は一瞬迷ったけれども冷蔵庫にずらりと常備してある咳止め薬のシロップの中から貴重な一本を取り出しキャップの目盛りに合わせて注意深く成人一回分だけ注ぎ入れて
すると彼女は
わたしが飲んでいいの
優しくしてくれてありがとう
そう感極まったように足の親指と人差し指をくねらせ交差させて
コデイン漬けの俺の網膜に激しく明滅を繰り返すストロボライトの残像として猫とも猿ともつかない動物の精巧にできたマスクを被って胸の谷間が二つあるDJの女が魚の鱗が煌めくタンクトップの乳房を四つも揺らして毛の生えた肉球のある鋼鉄の義手の鉤爪でアナログレコードの盤面をまるで1週間ぶりの自慰行為でもするみたいにせわしなく引っ掻き擦り上げると
見渡す限り奇形の牛と羊と山羊と人間の赤ん坊と胎児の死骸しか見当たらない極東の核融合炉施設にプルトニウムもろとも凍結されたチェチェンマフィアの愛人たちみたいに冷たく渇いた女たちの喘ぎ声で警告されるこの言葉が突然痙攣麻痺を起こし始め

ミミズミミズミミズミミズミミズミミズミミズ

それを背中に奥歯で氷を噛み砕きながら少し前までチームを組んでクラブDJをしていた男の友人が軽めの挨拶に来て俺が新しく連れているこれまで以上に若くてかわいい彼女の胸の谷間と白くて長い太腿にただでさえ血管の浮き出た二つの魚眼レンズを釘付けにして
まるで無人惑星探査機に搭載された交尾期にある座頭鯨の歌声を鳥葬の風習がまだ残る先住民の墓場で真夜中サンプリングしたみたいにどす黒く深い溜息の爆発音が地下の空間全体に繰り返し轟いて
煙草の吸い殻が山をなす水溜りだらけの床と蹴られた靴跡だらけの湿った壁と穴の空いた蛇腹状の汚水パイプが幾重にものたくる天井を揺らしてカクテルグラスに亀裂を走らせて

咳咳咳咳咳咳咳咳咳咳咳咳咳咳咳咳咳咳咳咳咳咳キセキ咳キセキ咳キセキ咳キセキ咳キセキ咳
奇跡軌跡奇跡軌跡奇跡軌跡奇跡軌跡奇跡軌跡奇

まだ正確な歳も苗字も星座も知らなくて球体人形を作るのが趣味で睡眠恐怖症でカフェインの錠剤に中毒しており青黴の生えた卒業写真みたいにつまらない油絵を描く自称画家で冬でも石油臭い寝汗を掻くという万年非正規労働者の父親と2人っきりで借家住まいだったりする彼女の太腿に俺が手を這わすとまるで毛を毟り取られた鶏みたいにびっしり鳥肌が浮き立ちいたずらっぽいその大きな瞳が一瞬にして沸騰したみたいに潤んで俺の鼓膜を震わせ焼いて
このまま帰るのもったいないね
そう熱く流し込んできて
国道666号線を爆走する個人タクシーの後部座席で俺の股間に手を差し込んできたその姿をバックミラー越しに伺う運転手の濁った視線と三半規管と前立腺が彼女をさらに激しく興奮させているのはまず間違いなくて
最終ゾンビ列車も走り抜けた黒い鳩の糞がびっしりこびりついた通りの高架下でふたり固く抱き合い奥まで捩じ込んだ舌で互いの眼球の視神経を容赦なく掻き混ぜ合っていると背骨が哀れに捻じ曲がった年寄りの酔いどれがつかつか近寄ってきて

唾液を交換するのはやめましょう
水を飲むのはやめましょう
咳をするのはやめましょう
俺はお人好しみたいに破顔一笑して　

いいか
俺はこの9年間
咳一つしたことがない｡

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