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新しいコーヒーメーカーを買った

題の通りだ。
以前からコーヒーメーカーを使っていたものの、何かと不調をきたすようになってきたので、思い切ってハイクラスなものに新調した。豆から淹れることができる割には手入れが容易で、セルフクリーニング機能までついている。もちろん、豆の挽き方や蒸らし度合いも調節可能。満足。

私はそんなにこだわりがないが、これだけの機能を備えたものを使ってみると、コーヒーというのは実にこだわりがいのある嗜好品であるとつくづく実感させられる。と同時に、人類の食への執着を感じずにはいられない。

現代社会において、コーヒー豆をそのままボリボリかじるものはそういない(少なくとも私の人生でそのような人はいなかった。これからもいないだろう)。
それは何故か?
ひとえに、まずいからだ。もし美味ければ、我々は毎朝コーヒー豆を齧って出勤しているはずである。
試しに今一粒口の中に放り込んでみたが、とても好ましいものではない(尤も、焙煎済みのものなのでもともとの味とはかけ離れているとしても)。

そう、コーヒー豆はまずいのだ。とても食えない。という結論に達してもよさそうなものだが、知恵深き人類はそう考えなかった。
長い歴史の中で、このまずい豆は何とかならないか、と試行錯誤したのだろう。
焙煎し、粉にして、水を通してまで、出てきた液体(それも、とても食欲をそそるとはいいがたい色をしたもの)を飲もうなどという執念には脱帽である。

蝕への執着を語るとき、よくこんにゃくや白米が挙げられる(詳しい製法は調べられたし)。これらには及ばないものの、1杯のコーヒーにも人類の歴史と叡智が詰まっているのだ。
今日も、巨人の肩の上でコーヒーを飲んでいる。

2024.6.3  コーヒーの抽出を待ちながら

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