第3講 「知能」を伸ばすには《資料読解》

《資料読解》
資料を読んだうえで、あなたは「知能」がどのように発達すると考えるのか説明してください。

(資料)鈴木忠「ゆらぎとしての発達と学習」『大東文化大学ファカルティ・デベロップメント委員会FD報告書2016年度』p6-26

※下記の大東文化大学のホームページより、2016年度版『FD報告書』【1/2】(4.7MB) をダウンロードしてください。(2022.8.14確認)


① これまでの授業をふりかえる

 最近「あ、ひとつ賢くなったな」と思ったのはどんな時でしょうか。子どもの頃は、足し算や引き算を知り、漢字がたくさん書けるようになり、大人に近づくごとに賢くなったような気がします。それが、大人になると、なんとなく知っていることは多いものです。じゃあ、説明してといわれると困るのだけど、「なんとなく知っている」状態でも困らないことも多いです。だから、そこへ少し情報が加わったとしても「賢くなったなぁ」とは思わないのかも知れません。では「賢さ」とはどんなものなのでしょうか。
   「賢さ」とは情報が増えることだと考える人は、情報量を増やすことが賢くなるということになるでしょう。「賢さ」とは、自分のものの見方や考え方を捉えなおす経験だと考える人は、経験を増やすことが賢くなるということになります。このように年齢によって、世代によって、生活環境によって、人によって「賢さ」とはどのようなものだと考えるのかは異なっているといえます。
 ですから、この「賢くなるには」という授業の前に、「賢さ」とは何を指しているのかを明らかにするという前回の授業が必要になります。「先生の授業は階段状になっていて、一段あがるとまた一段あがることができるようになる」といってくださった方がありました。学習と違って、教育は「何らかの意図」を持っています。その意図を伝えるために、順序立ててあり、あるまとまりで話す(体系だっている)必要がある、というのはこういうことだと思います。
 また毎回、資料読解で少し難しい資料を読みやすくなるよう、冒頭に説明を加えています。(それが正しいものだとは思わないし、発達心理学の人(専門分野)からしたら、曖昧な説明が多すぎると怒られそうですが。)階段の一段目が腰の位置よりも高いと、登ることを諦めてしまうことがあるでしょう。だから、そこに小さいはしごをかけてあげます。みんなが安心して最初の一歩を踏み出せるように。これも、資料を読んだ後にみんなで議論をできるようにするための教育的な営みなのです。

②知能の生涯発達

 さて、本題にはいりましょう。実は、今回の資料は講演録になっているので大変読みやすいはずです。前回の「知能」の資料が読みにくかったのに比べたら、なんと読みやすいのでしょうか。もはや、はしごをかける必要はなさそうです。むしろスライドと一緒に読んだ方がわかりやすいと思います。でも、まぁ最初の一段だけ、前回の授業とのつながりもありますから、一緒に読んでいきましょうか。
 前回、IQなどの知能検査で測れる知能を測っていくと、後に生まれた世代の方が知能が高かったという話をさらりとしました。私がいうと説得力がないのですが、鈴木さんはシャイエという人の研究を紹介しています。1963年に25歳、32歳、39歳、46歳、53歳、60歳、67歳、74歳、81歳の人をそれぞれ70人〜100人くらい集めて調査しました。それぞれの年代の平均点を線で結んでみると、明らかに歳をとると知能が低下していく、衰えていくことがわかります。でも、これは同じ人の変化を調べたものではありません。1963年に25歳でもあり、81歳でもある人なんていませんから。そこで、1963年に25歳だった人たちが60歳になった時の得点を調べることにしました。そうすると、低下はしているのだけど、低下の幅が小さい。1998 年の 60 歳は 1963 年の 39 歳よりも知能が高いといえるほどでした。つまり、 1998 年から35年の間にどの年齢の人も知能が上昇したといえます。

③発達と環境 

 そのことから、大人になると、知能が低下するということは遺伝的に決められていて抗いようがない、しかし、どれくらい低下するのか、というのはその人が歳を重ねていった環境に左右されるといえるそうです。「ああ、歳をとっても、知能の低下を抑えられるんだ」と安心することができます。
 でね、ここからが面白いんです。環境が知能に影響を与える、ウンウンそうだろうな、と思うでしょう。どのように、そのことを調べたらよいのでしょうか?
   みなさん、頭足人って知っていますか?小さい子に人間の絵描いてごらんというと、頭から手足が出たような絵を描くわけです。m&m'sってチョコレートのキャラクターを思い出していただけると幸いです。とにかく、そんな絵を描いている時期から、いつの間にか胴体がある絵を描くようになるのが、不思議でした。私は、テレビとか絵本とか身の回りに溢れている「人間」の姿をたくさん見ることで、知らず知らずのうちに胴体に手足がある人間の姿を描くようになるのだろうな、と思っていました。
 この疑問に対して、絵がない環境の人は大人になったらどんな絵を描くのか、という研究があるのだそうです。絵があるトルコの都市部の人たちの大人と子どもと大人の絵と、絵がまったくないトルコの農村部の人たちの大人と子どもの絵を比べます。どうなると思います?頭足人は、どちらの環境でも胴体に手足が生えた人の姿になると思いますか?それとも、大人になっても頭足人を書き続けると思いますか?この先は、どうぞ鈴木さんのスライドp9から読み始めてください。

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