第2講 「知能」とは何か «まとめ»
前回の授業から
前回の授業では、①「知能」ってなんだ? ②二つの知能 ③「流動性知能」は低下するのかについてまとめてきました。確認していきましょう。
知能のうち言葉の使い方や語彙など経験や本を読むことなどを通じて、生涯に渡って積み重ねていける知能がある(結晶性知能)。一方で、頭の回転のはやさなど、年齢とともに低下していくと考えられている知能(流動性知能)がある。しかし、流動性知能の低下は、人による個人差が大きかった。つまり、経験によって知能低下をコントロールできるのではないか?といことをみてきました。
そこで次に、その「知能」と現実との関係が気になってきます。つまり、「知能」が高いことと自分の生活やら人生が豊かであることが結びつくのかどうか、と思うわけです。いくら「生涯にわたる学習はいいですよ」とか「社会教育をしてみんなが豊かになれるようにしましょう」といっても、「私には関係ないわ」と思ったりしませんか。いやいや、人間は年をとる以上、誰にとっても関係があることなのですよという話を、次にしてみたいと思います。
①知能と現実の生活
余談ですけれど、鈴木忠さんのご著書を拝読すると、よくこんなに面白い調査とか研究を紹介できるなぁと思います。難解な内容も読んでみたいなぁという気にさせてしまうんです。で、おすすめの章ですからね、第4章。ぜひ、読んでみてください。(ここでふんふん、とわかった気になるのはもったいないです)
さて、「知能が高い」ということと現実生活での能力の関係を探るために、競馬マニアの「勝ち」の予想能力やアフリカのケニアの農村部の子どもたちの薬草の処方能力と知能検査の得点を比べてみました。すると、競馬の予想能力の高さや、薬草処方能力の的確さと知能検査の得点とはあまり相関がありませんでした。要するに、現実の暮らしのなかで必要となってくる知能と知能検査で測る知能とは別物なのではないか、と考えることができます。
仕事も、就職したての人から5年以上たつ人までを知能検査すると、最初の5年に関しては知能検査が高い方が仕事のできもよいけれど、働いて5年以上たつと仕事のできと知能検査の結果はあまり関係がないそうです。みんなが初めてする仕事は、知能が高い人の方がよくできるかもしれないけれど、その仕事をみんなが覚えて覚えてしまうと、今度は違う能力が仕事のでき/不できに影響してくるわけです。水商売で同時期に知能の高い子と低い子が入店したとして、最初のうちは知能が高い子の方が効率よく仕事を覚え、こなしていくことができるかもしれません。でも、どちらの子も仕事を覚えてしまうと、「コミュニケーション能力」とか「話題提供能力」とか「歌唱能力」とか知能検査で測る知能とは別の能力の方が重要になってくるわけです。
②知能の範囲と種類
飲み屋の話が続いて恐縮なのですが、とてもお世話になったバーのマスターが「おまえは学校で勉強して頭がいいかもしれないけど、俺は経験から得た知識がある」というので、飲みながらずっとその議論してました。夜の仕事をさせていただくと、「概念」とか「価値観」とかの言葉を知らないな、と思う人もいます。でも、どうやって利益を出すのかという営業能力であったり、いろいろな困難への対応などの問題対処能力であったり、すごく高いわけです。当たり前ですよね、身一つで店を構えているわけですから。
私の感覚でいえば「経験から得た知能」は裏切りが少ない、でも「知識から得たもの」は現実で裏切ることがある。経験のなかには言葉になっていない様々な情報が詰め込まれています。それを脳が情報処理をして、その場にあわせた最適解を探し出してくる。ところが、本などの知識から入ったものは、「本」になった時点で情報が整理されてしまっているわけです。博物館学なんていい例だと思いますが「この博物館だからできたんでしょ」という事例紹介、よくありますよね。文章にはなってないけど、都会にあるとか、地方にあるとか、関われる人数がいるとかいないとか、さまざまな現実の条件や要因がその成功の裏にあるわけです。だから、本で読んでいいなと思って、自分の博物館で同じことをやろうとしても、上手くいかないということがあるかも知れません。
こうみてくると「経験から得た知識」の方がいいじゃんと思うでしょう。でもね、経験から得た知識は「領域固有性」があるといわれています。
③暗黙知と状況との対話
「領域固有性」という言葉が出てきました。この言葉の説明の前に、もう少し、私の感覚の話を続けます。経験から得た知識は、その時の天気や対応にあたったスタッフのキャラクター、参加者の反応(アンケートに記述されないタイプの表情とか、リアクションとか)など、さまざまなデータが「ことば」にはならずに「脳」のなかに存在しています。私たちは、ことばにできるより多くのことを知ることができるのです。人の顔だって、この人は鼻が何センチの高さで、目と目の間は何センチとか細かく言語化していませんよね。このように個々のことがらは認識されていないにもかかわらず、全体としては理解できていることがあるのです。
だからこそ、膨大な経験知というデータベースから、今・ここ・この人に一番効くものを探そうとするわけです。探そうとする過程を通じて「○○かな?」と仮説をたてはじめるわけです。例えば、「こないだも、小学生を対象としたイベントでモノをよくみようとした子どもとそうでない子がいたな、その差はなぜ生まれるのであろうか」とか。1回目にイベントをした時は、脳内のデータベースのなかにその情報をインプットさせただけ、はっきりとことばにできるほどは意識されていなかったかもしれません。これを「暗黙知」とよんでいます。
次の時には、仮説をもって、よくみようとした子とそうでない子をよく観察するようになる。あるいは、子どもへの問いかけを変えてみる。そのように現実の状況に対して、アクションを起こしていくわけです。そのことによってBという反応や、Cという反応が返ってくる。そのことで、全体を捉えることばが生まれてくるわけです。このように現実に対して、何らかのアクションを起こし、変更を迫っていくこと、つまり「状況との対話」によって、自分のなかに「経験のデータ」が蓄積されていきます。
さて、学校の教員もこのような実践的を通じて獲得される「暗黙知」が多いお仕事だなと思います。これまでの経験から膨大なデータを身につけていらっしゃる。まあ教員に限らず「経験がものをいう」という業界はどこもそうかも知れません。私は、小学校に出前授業にいくこともありましたし、大学で授業をしたりもしているので、「教える」ということについてはまぁそれなりにできるかも・・・と思っていました。しかし、実際に学校教育の世界に入ってみると、これが大変難しい。「暗黙知」の部分がないわけです。教えるということなので、「教える」をベースにした応用だと思ったらまったく違うんです。教員のもっている「暗黙知」と学芸員がもっている「暗黙知」がまったく違うもので、教員のもっている「暗黙知」をある程度身につけないと「教えること」そのものが難しいのです。だから「経験から得た知識」はある世界の状況に対しては、かなり的確な答えをだしてくれるけれど、ちがう世界の状況には応用が利かないということを、身をもって知りました。これが、実践的な経験から獲得された知能は他分野での応用が利かない、つまりその領域のなかだけに閉じてしまう傾向にあり、領域固有性を持つということなのです。
IQはスペック
最後にすこしだけ、鈴木忠さんにご登場いただきましょう。
たしかに、 知能検査や学校の試験は、「問題」を明示してくれる。だから与えられた「問題」に対する1つの「答え」を提示したらいい。でも、現実は「問題」がどこにあるのかさえわからないことも多いし、「答え」の出し方で「問題」のあり方が変化してしまうこともある。「こういうふうにしたい」という目標だって人によっていくつもの答えがある。そのなかで、自分に与えられた資源をうまく使いながら、経験から学んでいくことで実践的知能は獲得されていくというわけです。