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あーちゃんにもらった人生のミッション



「ごはん出来たで。」
深い海の中、かすかに届くあーちゃんの声。頭の中でその言葉を何度か反復してみるけれど、また深い海に溺れてしまう。

「起きや!ごはん出来たで。」
今度は急に耳元で大きな声がして、パッと目を覚ます。ぼやけた視界に映り込んだあーちゃんがもう一度言う。「ごはん、出来たで。」

学校から帰ってくると、緊張がとき解れるのか、決まって睡魔に襲われた私は、夜ごはんまで少しだけと言って、いつもリビングのソファでお昼寝(夕寝と言うのだろうか)をしていた。

眠りに落ちるまでの10分間。BGMは、台所で祖母が奏でる夕飯作りの音。トントン、コトコト、グツグツ…いつの間にか深い海に沈んでゆく。そしていつも「ごはん出来たで。」の祖母の声で現実世界に返ってくるのだった。

そう、" あーちゃん "というのは、我が家の中の祖母の愛称。共働きの両親に代わって、私と姉の世話から、炊事、洗濯に至るまでの家事一切を請け負ってくれていた、一家の大黒柱だ。

几帳面できれい好き。台所やリビングはいつも驚くほどに整頓され、汚れひとつ見つからない。あーちゃんは、いつも家族が気持ちよく生活できるよう、動き回っていた。自分のことは後回し、家族のことが最優先。特に「食」に関しては、私たち孫が喜ぶごはんってなんだろう、、?と、いつも頭を捻らせていた。

幼少期、学生時代の味の記憶を辿ってみると、そのほとんどが祖母と結びつく。

行きつけの生肉屋さんのお肉で揚げたほかほかのコロッケ。「休みの日だけやで。」と言って作ってくれた、ニンニクたっぷり、じゃがいもとこんにゃくの鉄板焼き。機嫌が良いときに焼いてくれる、具沢山のピザパン、、どれもこれも美味しかった。

あーちゃんと一緒に夜ごはんを食べながら、今日は学校でこんなことがあったよ、あんなことがあったよと話すのが日課。私や姉の話を、いつも楽しそうに聞いていた。夜ごはんは、彼女とのコミュニケーションツールだった。思い返せば、あーちゃんに否定されたことって、一度だってないかもしれない。「私、こんなことやりたいねん。」と話したときには、「ええやん。頑張り!」「勉強嫌や・・・」と嘆いたときには、「嫌なことは無理してやらんでええんちゃう?」「ねえ、シュークリームとプリンどっちも食べたいんやけど、どっちも食べたら太るよな?」という幸せな悩みには、「どっちも食べたらええやん。ちょっと太ってる方が可愛いわ。」といった調子。常に味方だった。

こんなこともあった。中2のとき、友人関係で悩んでいた私。心配をかけまいといつもどおり振舞っていたつもりだったけど、「なんかあったんか?」と小さな違和感をすぐに察知して聞いてくれたときには、なんでもお見通しなんだと驚いた。

でも、高校3年にあがる頃には、受験のために夜遅くまで塾に籠る日々。家で夜ごはんを食べない日の方が多くなった。あーちゃんとの会話も、朝に「いってらっしゃい。」「いってきます。」の挨拶を交わすだけ。

無事に大学に合格してからも、勉強、友だちとのお出かけ、バイトに追われる日々で、あーちゃんが起きている時間に家に帰ることは中々できなかった。家に帰ると、ラップに包まれた夜ごはんが寂しげに私を見つめている。私とあーちゃんのコミュニケーションツールは、いつの間にか無くなっていった。

「最近ゆっくり話せてないな…」そんな風に思った矢先だった。彼女が突然この世を去ったのは。



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どの引き出しにしまわれていたのだろう、あーちゃんともう二度と言葉をかわすことができないという現実をつきつけられた瞬間、走馬灯のように彼女との記憶が蘇ってきた。
手を繋いで帰った保育園からの帰り道。愛犬クロを連れて、歌いながら歩いた夕暮れ時の河川敷。七夕祭りの浴衣の着付け。「あーちゃん、ご飯美味しい!」と伝えた時の嬉しそうな笑顔。ぎゅーっと抱きしめて髪をわしゃわしゃしてくれたあの優しくて温かい手、、、

与えてもらったものばかり。私はなんの恩返しもできていない。いつか、いつかと思いつつ、そのいつかは永遠に訪れることがないままになってしまった。

悔やんだ。もう遅いとわかっていながらも、悔やんだ。クリスマスが近かった時期で、街中に溢れる浮かれたムードが私をさらに苦しめた。自分は今まで何をやっていたんだろう、、、いつも私の話を沢山聞いてくれるのに、私があーちゃんの話をちゃんと聞いたことってあったかな?「これで好きなもん買い。」といっておこずかいをよくくれるのに、私があーちゃんの欲しいものを買ってあげたことってあったかな?なんでもっと話さなかったんだろう。なんでもっと大事にしなかったんだろう。行き場のない怒りと悔しさと悲しみで、ボロボロになった。

誰かに吐き出したい。でも家族は同じ辛さを味わっていて、傷の舐め合いになってしまう。友だちに話すと、きっと気を遣わせてしまう。そのとき私が選んだ悲しみのはけ口は、大学のゼミの教授だった。私が通っていた大学は、キリスト教系の大学で、牧師さんが何人かいたのだけれど、教授もその一人だった。

早朝、授業が始まる1時間前。沢山の書籍が乱雑に積まれた狭い部屋に、教授は私を迎え入れてくれた。「どうしたの?」優しい眼差しで私を見つめる。自分がどんな話をしたのかは、もうあまり覚えていない。でも、祖母がいなくなってから、不思議と流れなかった涙が、その瞬間に滝のように溢れ出したことは覚えている。

私の話を黙って静かに聞き終えたあと、少し間を置いて、教授はこんなことを言ってくれた。「おばあちゃん、すごく素敵な人やったんやね。そんな家族思いの人やったら、あなたがずっと悲しんでること、心配してるやろうね。確かにもうおばあちゃんに直接恩を返すことはできないかもしれないけど、今度はあなたが、おばあちゃんから受けた優しさや愛情を、家族や友人、周りの人に返していけばいいじゃない。そうしたら、あなたの中でおばあちゃんはいつまでも生き続ける。それは結果的におばあちゃんに恩を返すことと同じと違うかな?」

心がふっと軽くなった気がした。そうだ、あーちゃんは、家族が楽しそうにしているのを見ると、とても嬉しそうだった。いつまでもクヨクヨし続ける私を見たらどうだろう?きっと悲しむに違いない。あーちゃんとの幸せな思い出を胸に、楽しく生きることが、私にできる恩返しの一つで、そして、彼女から受けた恩を、一生かけて周りの人に返していこうと心に決めた。

と言っても、すぐに気持ちを切り替えることはできなくて、何度も立ち止まりながらここまできた。忘れた日なんて一日もない。6年が経とうとしている今も、思い出しては胸がキュッと痛くなる。

私はまだまだ自分勝手で、ずるくて、大人になりきれなくて、寛大で強いあーちゃんには程遠い人間だ。でも、今日も少しづつ、あーちゃんから受けた恩を返してゆく。これは私の人生のミッション。

きっといつかまた会えるよね?その時に、ちゃんと胸を張って、あーちゃんの元に走って行けるように、優しい心で生きてゆく。今度は、私が先にぎゅーっと力強く抱きしめるから。積もる話を沢山しよう。

それまで、元気で見守っててね。


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