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大友皇子、高市皇子の間で揺れた十市皇女は悲劇のヒロインか?

何やら煽情的なタイトルですが(笑)

こんにちは。先日の投稿で千葉県にある藤原時平ゆかりの神社を取り上げたときに「千葉県には貴種流離譚めいた伝承がある」といったことを書いたのですが、投稿した後になって「そういえばコレもあったな」と思い出したネタがあったので取り上げてみることにしました。

上記の画像は千葉県夷隅郡大多喜町、紅葉の名所としても知られる養老渓谷にある「弘文洞跡」です。房総半島の中心やや南、所在地の大多喜町は本多忠勝でおなじみの大多喜城跡がある地域でもある…と書けば関東圏に馴染みがない方にもわかりやすいでしょうか。ちなみに夷隅郡は「いすみ」と書きますが、千葉県にはひらがなの「いすみ市」もあってかなり紛らわしい。

この弘文洞跡は養老渓谷の見どころのひとつでもあるのですが、画像2枚目の説明板は見づらいので(笑)↓のWikiのページをご参照ください。

このページにも書かれているようにこの地域には大友皇子とその妃であった十市皇女を巡る流浪伝説があります。上記のページで命名の由来とされている筒森神社についてはわたくしも行ったことがないのでこれもWikiのページで↓

壬申の乱(672年)で敗北した大友皇子はじつは自決せずに逃亡、正妃の十市皇女とともにこの房総の地まで逃れていていた!

この神社の祭神はその十市皇女、伝説では難産で亡くなったことになっている彼女が安産の神さまになる…というのもじつに日本らしいですね。

今回はこの十市皇女をネタにしてみたいと思います。

父親が天武天皇、そして母親はあの有名な額田王。天智天皇の子である大友皇子の正妃になり、天智天皇の死後に壬申の乱と遭遇、乱後は父の元に身を寄せていたものの6年後の678年に20代後半~30歳前後くらいで死去(薨去。生年には諸説あり)。


↑の画像は奈良県奈良市にある「比賣(ひめ)神社」。十市皇女の墓との伝承をもつ「 比賣塚」に建てられている神社です。奈良公園の南、新薬師寺のすぐ近く。そして↓の画像は現地に掲示されていたこの神社創建のエピソードを伝える新聞。


この神社設立を巡るエピソードも面白いですが、記事の左上に書かれているようにこの十市皇女には壬申の乱における内通説があります。

とくによく知られているのが宇治拾遺物語に登場する話です。「清見原(浄御原)天皇、大友皇子と合戦の事」というタイトルがつけられた話。それによると…

「天智天皇が死んだ際、当時皇太子(皇太弟)の地位にいた大海人皇子は身の危険を感じて吉野へ行って出家する意図を示す。しかし大友皇子とその周辺は彼を野放しにすると危険、と判断し(「虎に羽根をつけて野に放つようなものだ」)、騙し討ちで殺してしまうことにした。

その策略を聞き知った大海人皇子の娘で大友皇子の妻となっていた十市皇女は包み焼きにした鮒の中に手紙を隠して父親に渡すことにした。それによって自らの身に危険が差し迫っていることを知った大海人皇子は取るものもとりいえず脱出したのだった…そして無事逃れた後に各地で兵士を集め、ついに大友皇子を破ること成功、天皇の位につくことに成功したのであった…

めでたしめでたし」

天智天皇の死ぬ時期と大海人皇子が吉野へと赴くタイミングなど(天地が死ぬ前に吉野へ行っているはず)、多少史実とされる内容とズレも見られますが、大筋はよく知られた内容となっています。

ただ十市皇女の内通のエピソードはあくまで後世に作られたものであって史実を伝えるものではない、というのが一般的な見方です。

では内通していた可能性はないのか?

この新聞の記事ではかなりロマンティックな解釈で十市皇女を悲劇のヒロインとして扱っていますが、わたくしは内通説は十分にありえると思います。

その理由としてまず大化の改新(乙巳の変)を巡る状況をちょっと見直してみたい。

政治の中枢から蘇我氏が排除された後、皇極天皇の弟である孝徳天皇が即位、都を大阪の難波宮に置きます…がのちに中大兄皇子と不和となったらしく、中大兄皇子は母親の皇極元天皇、弟の大海人皇子、さらに孝徳天皇の皇后になっていた同母妹の間人(はしひと)皇女ともども飛鳥の旧都へと引き払ってしまいました。そして失意の孝徳天皇は翌年死去、皇極元天皇は歴史上初の重祚を行い斉明天皇になる…

自分の身近にいる女性たちにそっぽを向かれてしまった孝徳天皇がちょっと不憫に思えますが…しかも息子の有間皇子も後に殺害されてしまいますし。

で、壬申の乱を巡る状況はどうかとなると…

天智天皇の時代には都は大津京に移っていたが、壬申の乱のときには大友皇子の異母姉にあたる後の持統天皇(鸕野讚良)は夫の大海人皇子に従って吉野へ、さらに妻の十市皇女は壬申の乱のいずれかのタイミングで父親の大海人皇子のもとへ身を寄せて乱の危険から逃れることになる。

大友皇子は自分の近い立場にいる女性たちにそっぽを向かれた形で寂しい最期を迎えたことになります。

つまり、天智天皇が自分の叔父に対して行ったのと似たようなことを彼の息子である大友皇子が自分の叔父にされてしまう…これも何かの因果でしょうか?

そして記紀神話には垂仁天皇の時代の出来事として狭穂姫命をめぐるエピソードが見られます。↓はそのWikiのページ。

自分の兄が夫である天皇に向かって叛意を露にしたときに夫ではなく兄の側について破滅してしまう話。

これらの状況は今も昔も変わらない「婚家と実家の間でトラブルが発生したときに女性はどちらの側につくか」という難し~いテーマが横たわっているように思えます。そしてこれらのエピソードは古代においては実家につくケースの方が一般的だったのではないか、という推測を可能にすると思います。

持統天皇は婚家の側についたわけですが、彼女の場合はそもそも父の天智天皇が死んで、決して後継の天皇に相応しいとは思えない(例えば自分の息子の草壁皇子と比べて)異母弟が後を継いだ段階で「もう実家は存在しない」という境地に達していたのだと思います。

時代が下ると北条政子などは実家についたタイプに分類できそうですが、足利尊氏に嫁いだ赤橋登子(足利義詮&基氏の母親)などは婚家についたタイプ(本人に選択の余地があったかどうかは別にして)。

そして戦国時代ともなると婚家につく(というか殉ずる)のが一般的になったように思えます。これはしばしば言われる「武士の世になってから女性の地位が低下した」説とも関わってきそうですが…

ともあれ、これがまず十市皇女の内通説がありえそうな根拠のひとつめ。

もうひとつは十市皇女と高市皇子との関係。

どうやらこのふたり、❤❤な恋愛関係にあったらしく(二人は異母姉弟)、十市皇女が死んだ時に高市皇子が詠んだとされる挽歌が三歌、万葉集に収録されています。

巻二の156~158歌。「十市皇女の薨(かむあが)りましし時に、高市皇子尊の作りませる御歌三首」との詞書つき。引用元は講談社文庫の中西進・著「万葉集 全訳注原文付」

156
「三諸の神の神杉 夢のみに見えつつ 共に寝ねぬ夜ぞ多き」
157
「神山の山辺真麻木綿 短木綿 かくのみ故に長くと思ひき」
158
「山振の 立ち儀ひたる 山清水 酌みに行かめど 道の知らなく」

われわれ現代人にはちょっとわかりにくい内容ですが…156の歌は「三輪山の神々しい神杉のようなあなた、夢ばかりに見ながら共寝せぬ夜の長かったことよ」という訳になっています。

結句からは「共寝しない夜が長い=共寝する夜もあった」ことを示唆しているように思えます。いずれにせよかなり深い関係にあったのは事実らしい。問題なのはこの二人がいつから❤❤な関係になったか?

壬申の乱後、という説が有力らしいのですが、高市皇子は大海人皇子の長男で654年生まれ、額田王を母としている十市皇女はそれよりちょっと年上のお姉さんと考えられています。そして次男の草壁皇子の成年が662年、「悲劇のプリンス」大津皇子が663年。ちょっと年が離れていますね。

となると年齢が近かった高市皇子と十市皇女は幼い頃から他の大海人皇子の子どもたちよりも親しい関係にあったと考えることもできるでしょう。もうすでに恋愛関係の種は早い段階でまかれていたのではないか?

さらに壬申の乱の際、高市皇子は父親の大海人皇子には同行しておらず、大津京にいました。父からの密使を受けて大津京から脱出、合流することになる。つまり、彼は乱が勃発したときまで十市皇女と同じ場所にいたことになる。

となると、緊迫した状況の中で高市皇子はどうやって敵地となった大津京から脱出することができたのか?

すでに❤❤な関係にあった十市皇女が手引したのではいなか?

さらに↑の画像、比賣神社のすぐ隣りにあるの神像(かむかた)石の主人公、淡海三船は大友皇子と十市皇女のひ孫。十市皇女は息子の葛野王と一緒に難を逃れており、この葛野王が大友皇子と十市皇女の血筋を後世に伝えています。Wikiによると藤原道長に「欠けたることなき」栄華をもたらした姉の藤原詮子は十市皇女の子孫だそうで、ということは摂関家と天皇家の両方に彼女の血(大友皇子も)が受け継がれていることになりますねぇ。

そうなると、新聞の記事にあるような大阪城から千姫を救出したときのような戦火に包まれた中でも必死の救出劇…といった状況はちょっと考えづらい、母子ともどももっと早い段階で大海人皇子のもとへと逃れることに成功していたと見るべきでしょう。

どうやって?そう、高市皇子と一緒に脱出したのではないか?

しかも、高市皇子は父と合流した後に最高司令官として活躍、その勲功もあって天武・持統朝において太政大臣になるなど重鎮として活躍します(母親の身分があまり高くなかったので皇位継承の候補にはなっていなかった模様。大津皇子の悲劇を思うとそれでよかったのでしょう)。

なぜ最高司令官として活躍できたのか?十市皇女が大友皇子方の内情を彼に教えていたからではないか?

さて、真相はいかに?

ただ内通説が本当だとしてもそれは十市皇女が裏切り者だったことを意味するのではなく、あくまで当時の常識ではごく当然のことをしたまで、と見た方がよいように思えます。

これを裏切りと見るのはあくまで現代人の価値観に過ぎないかもしれませんし、その価値観に引きずられて「悲劇のヒロインたる彼女がそんなことをしたはずがない」という先入観をもたらしてしまう恐れも出てきます。

こうして見ると千葉の大友皇子&十市皇女の流浪伝説は興味深く感じます。これは十市皇女の内通説を受け入れたくない人たちによって伝えられ、受け継がれてきた美しい悲劇の物語…というのはちょっと先入観で見すぎでしょうか。

それともうひとつ、現在ではあまり支持されていない説だと思いますが、そもそも壬申の乱の遠因として中大兄皇子と大海人皇子との間の額田王を巡る不仲があった…という説もあります。その娘が実際にこの兄弟を巡る争いに巻きこれることになってしまう…

人の営みとはなんと複雑に因果が絡まりあいながら展開していくものなのか!

壬申の乱の後、十市皇女と高市皇子との関係がどうなったのか(正式に妃になったとの説も)は定かではありませんが、彼女が死んだ後、684年に天智天皇の娘御名部皇女との間に息子が産まれます(生年に関しては異説もあり)

それがかの長屋王。

情報戦も展開しつつ朝廷勢力を潰すことに成功した高市皇子の子が朝廷内の情報戦に敗れて潰される…

これもなにかの因縁でしょうか。

先述した十市皇女の内通説を伝える宇治拾遺物語の話では高階氏が登場します。↓は高階氏についてのWikiページ

高市皇子の子孫の氏族、宇治拾遺物語では大津京を脱出した大海人皇子が難を逃れるために各地を移動している途中に志摩国(三重県)に到着、その地で現地の人たちに「喉が渇いたから水をくれないか」と頼んだところある人が快く水を提供し、それに喜んだ大海人皇子が「そなたの一族をこの国の長としよう」と言った…という場面が出てきます。この水を提供した人物が高階氏の人間で、その結果この一族が志摩の国主になっているという設定になっています。

そしてWikiページに書かれているようにこの一族が伊勢権守のときに当時の斎宮、恬子内親王(てんし/やすこ)と在原業平との間にスキャンダルが生じ(伊勢物語にもそれを示唆するエピソードが登場)、この二人の間に産まれた子供を高階氏が引き取って育て、後継者とした。

これが事実かどうかはともかく、早くも平安時代にはかなり広まっていたらしく、Wikiページにあるように高階氏の出身だった藤原道隆の正室、高階貴子(藤原伊周、隆家、定子の母親)が誹謗中傷めいた被害を受けた(おそらくは道長陣営から)らしい。もしかしたらこの話も今年の大河ドラマに登場するかも。

高市皇子の後裔が朝廷の権力争いの情報戦に利用される…

これも何かの因縁でしょうか。

十市皇女の内通説を伝える話に高市皇子の子孫の話が登場するのもちょっと意味深な気がします。宇治拾遺物語が書かれた13世紀にはこの二人の関係についていろいろな説が飛び交っていたのかもしれません。例えば、高階氏は高市皇子と十市皇女の間の子孫ではないか、とか。

さらに中世に入るとこの高階氏からは日本史上最大最強の噛ませ犬(これは褒め言葉。歴史を大きく動かすことを成し遂げていながら後世に影響を及ぼすことも、本人たちの理念を後世に受け継がせることもできず結果的に敗者となった、という意味で)こと高師直&師泰兄弟が出てきます。

朝廷の権威をなんとも思わずに吉野の南朝を焼き払い、北条時行や北畠顕家、楠正行などの難敵を次々と撃破して大活躍するものの、最後は幕府内の内部闘争に巻き込まれ(というか自分たちで引き起こし)てかなり無惨な死を迎えることになる。

高市皇子と十市皇女の因縁がここまで影響を及ぼしているのか?という気さえしてきます。

ちなみに比賣神社のすぐとなりには鏡神社(南都鏡神社)があります。比賣神社はこの境外社の立ち位置。

この神社の祭神は740年、聖武天皇の時代に反乱を起こした藤原広嗣!

どうも十市皇女周辺にはキナ臭さが漂うのですが…😃

ただし、飛鳥・奈良時代には平安時代の京都で大流行する怨霊の概念はまだなかった(もしくは希薄)だったらしく、大友皇子、長屋王、藤原広嗣(あるいは十市皇女も)といったいかにも怨霊になりそうな人たちに関する当時の恐ろし~い怨霊エピソードは伝えられていないようです。そして今ではさまざまな伝説を残しつつも静かに眠りについている印象です。(現代になって長屋王邸宅跡の呪いの話が生まれていますが。そっとしていてあげようよ、という気もしなくもない😆)

長々ととりとめのない内容になってしまいました。最後までご覧になってくださった方、ありがとうございました!


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