女化神社 ~女”が”化ける?それとも女”に”化ける?そもそもなんて読むの?
夢枕獏氏の「陰陽師」のメディアミックス化をきっかけに大ブレイク、一躍歴史上の有名人となった安倍晴明(921-1005)。もっぱら京都で活躍した人物のはずなのですが、なぜか関東地方にも彼に関連があるようなないような…な微妙なスポットがいくつかあります。
そのうちのひとつ、今回投稿するのは茨城県龍ケ崎市にある女化神社。祭神は保食神、というわけで女化稲荷神社とも呼ばれています。
この名前を見てまず感じるのがまず「なんて読むの?」。女化と書いて「おなばけ」と読みます。難読・珍名地名でときどき名前が挙げられたりもします。しかも住所は龍ケ崎市なんですが、位置的には完全に牛久市。牛久市内における龍ケ崎市の飛び地のような形で立地しています。しかも女化神社がある周辺は牛久市の「女化町」という地名。散策していると自分がどこにいるのか位置関係がよくわからなくなってくる神社です。
さすが稲荷神社、居場所も化ける。
この「女化神社」という名前がインパクト大で、「どんな神社だよ!」とツッコミを入れつつ実際に現地で扁額に書かれているのを見ると「やっぱインパクトあるようなぁ」と再認識。表意文字の漢字が持つ面白さを味わわせてくれる名前なのかもしれません。
そして名前から浮かぶもう一つの疑問「女化?女「が」化けるのか、それとも女「に」化けるのか?」
その答はこの神社の由来になった伝説にあります。
そう、「女”に”化けた」話なんですね。
異類婚姻譚とか異常出生譚に分類される話型ですね。人間と動物・妖怪などが結ばれても最終的には破綻せざるを得ない、でも両者の間から生まれた子供は優れた(しばしば異常な)能力に恵まれる。ヨーロッパのメリュジーヌ伝説や日本神話の山幸彦&豊玉姫のエピソードにも通じるスタイル。
そして安倍晴明の出生譚として知られる「信太の葛の葉伝説」と基本的な骨格がほぼ同じ。
この伝説にある葛の葉が立ち去る前に残したとされるのが説明板にもある
「恋しくば 尋ねきてみよ 和泉なる
信太の森の うらみ葛の葉」
という歌。
それに対して女化稲荷神社の伝説において女性に化けた狐が残していった歌が伝えられています。それが↓
「みどり児の 母はと問わば 女化の
原に泣く泣く 伏すと答えよ」
という歌です。
さて、2つの歌を比較してみてどうでしょうか?女化の伝説の歌は「原に泣く泣く伏すと答えよ」の部分が非常に良くできていて、「原」を「腹」とかけることでキツネが草がぼうぼうに生えた野原に伏せている情景を連想させ、さらに「伏す」で四足の動物が伏せている姿勢と、女性が突っ伏して嘆き悲しんでいる光景の両方を想起させます。もちろん、「泣く泣く」が「鳴く鳴く」と結びつく。
人間のもとから去っていた野生のキツネがひとり寂しく佇む荒涼とした野原の情景をベースとしつつ、そこに美しい女性が突っ伏して悲しみに暮れる様子がオーバーラップしてくる。そんな読む人に二重のシーンを想起させる仕組みになっていると思います。
しかも「原(腹)に泣く泣く」とすることで実際に声を上げて泣き叫んでいるわけではなく、胸の内、心の中(つまり腹の中)で泣いている、いかにも耐えることを求められた昔の女性らしい印象をかもしだす。
それゆえ妻を失った夫や子供が彼女がいるはずの野原にたずねていったとしても彼女の泣く(鳴く)声が聞こえるとは限らない、彼女を見つけ出せるとも限らない、両者の間にはつながっているともつながっていないとも言い切れない連絡と断絶の両方が横たわる。この曖昧さがいかにも日本的。
それに比べると葛の葉の歌の方はちょっとわかりづらい。この伝説は江戸時代に説経節によって広まったらしく、この歌もたしかに節回しをつけやすい印象を受けますが…
もちろん人によって評価は異なりますが、いかがでしょうか?女化伝説の方に軍配を挙げる人が多いのではないか、と個人的には思うのですが。
この女化神社、キツネ伝説を持っているだけあって2基のキツネの像もかなり立派なもので、しかも伝説に基づいて向かって小狐が合計3匹。ほかにも奉納された額や灯籠にもキツネがいたりしてなかなかクールです。
さらに神社から北へ200メートルくらい直進した林の中に奥の院があり、正体がバレてしまった雌キツネはここから立ち去ったとされています。
この奥の院周辺の環境が歌に出てくる「女化の原」の名残をほんのちょっぴり窺わせてくれる点もナイス。
なお、わたしは訪れたことはないのですが、この女化神社の東、稲敷市には「根本女化稲荷神社」という神社もあります。伝説の説明板にも「根本(稲敷市)」の名前が出てきますが、どうやらこちらが伝説の発祥地のようです。ただこちらの神社は現在かなり廃れてしまっている模様。
ではなぜ、茨城の地にこうした安倍晴明と明らかに深い関わりがある伝説と神社があるのか?
安倍晴明といえば陰陽道、そして晴明が編纂したとの伝承を持つ陰陽道の聖典(実用書?)に「簠簋内伝(ほきないでん)」とう書物があります。「金烏玉兎集(きんうぎょくとしゅう)」の通称の方が有名かもしれません。そしてこの「簠簋内伝(ほきないでん)」の注釈書として「簠簋抄」と呼ばれるものがあり、そこに「晴明は常陸国出身である」という記述が登場します。
そもそも、信太の葛の葉伝説そのものがこの「簠簋抄」から広まったようです。
↑の画像のように少なくとも現在確認できる葛の葉伝説のもっとも古いバージョンがこの「簠簋抄」バージョンらしい。
となると茨城(常陸国)に安倍晴明に似た伝説が伝えられてもおかしくはないわけですが…
さらに、安倍晴明と関東平野の治水対策との関連もしばしば想定されます。先述した「簠簋抄」において安倍晴明の出身地とされた猫島という地(現在の茨城県筑西市)では安倍晴明が河川の氾濫を防ぐために石橋を築いた、との伝説が残されています。
平坦な地形に多数の川が流れている関東平野は長い間何度も河川の氾濫の被害にさらされてきたわけですが(関東平野に住む人間にとっての徳川家康の最大の功績はこの地域の治水事業でしょう)、そんなしばしば人間のコントロールを越えて暴れまわる河川の「荒ぶる力」をなだめるためにも祈りの力を必要とし、その対象として陰陽道の達人、安倍晴明が信仰の対象とされる機会もあったと考えることができるのではないでしょうか?
↑は境内にあった大正時代に奉納された扁額。ちょっと見にくいですが、扁額の左下には「千葉県東葛飾郡大柏村」と書かれています。現在の千葉県市川市あたりらしい。
こちらは新しめの記念碑。東京都江戸川区。
東京の東部~千葉県西部にまで氏子を持っているのも驚きですが、どちらも河川の氾濫に悩まされそうな地域なのは偶然でしょうか?
なお、「簠簋内伝」は修験道でも重視されたらしく、神秘的な験力を身につけるためにそこに書かれている知識が求められていたようです。
↑は今年はじめに國學院大學博物館で開催されていた伊豆修験をテーマにした特別展で撮影してきた「簠簋内伝」です。
となると茨城をはじめとした関東平野で安倍晴明に関する伝説や信仰が広まった背景には彼ら修験道(とくに一般人とも関わる機会が多かった里修験の人たち)や江戸時代に活動していた「法師陰陽師」といった人たちの活動も推測できるのではないか?と思うのですがいかがでしょうか?
ですから、順番としてはやはり「葛の葉の伝説」が先で、女化伝説の方が後発と見るのがごく自然なのでしょう。
いずれにせよ、関東地方における安倍晴明がらみの史跡の多くは江戸時代以降に定着したものだと考えたほうがよさそうです。(社伝によると女化神社の創建は1505年とされていますが)
ただいくら安倍晴明が治水や測量と結び付けられたといっても、あるいは修験のひとたちが安倍晴明が編集したとされる書物を重視していたといっても、実際に陰陽道の知識が役に立ったのか?となるとまた全く別の話。
時代はかなり遡って遣唐使の時代の話、当時の遣唐使は遭難・沈没のリスクが高く、まさに命がけであった…というのが一般的な理解なのですが、海洋時代小説で知られる作家、白石一郎氏は「水軍の城」という著作の中で以下のような興味深い記述をしています。ちょっと引用しちゃいます。
「遣唐使の出航日時は、都の陰陽師あたりが占いで決めていたのではないか。それとも中央政府に恨みこそあれ、恩義のかけらもない九州の貧しい海賊や漁師たちが、聞かれても教えなかったのか。あるいは、当時の貴人たちは片田舎の人々の話に、貸す耳を持たなかったのか」
で、遣唐使は9世紀に入る頃には滅多に行われなくなり、最終的に「白紙(894)に戻す」で894年、菅原道真の意見で停止となりました。
歴史の教科書や一般的な「通説」ではこの遣唐使の停止(廃止)について以下のような説明がよく見られます。
「朝廷による正式な使節としての遣唐使は廃止されたが、その後商人や仏教僧など民間レベルでは中国大陸、朝鮮半島との交流は活発に行われ続けた」
パッと読むだけなら「へえ、なるほど」って感じですが、よく読むとちょっとおかしいですよね。多額の予算と十分な準備、最新鋭の設備、最先端の知識を投入しているはずの遣唐使が多大な危険をかかえていたうえに実際に何度も遭難・漂流の憂き目に遭っていたというのに、どうして民間の船が頻繁に行き来できるのか?という疑問が出てきます。
おそらく上記の白石一郎氏の意見は正しいのでしょう。つまり、遅くとも9世紀半ばの段階で陰陽道は実用的な学問としてはもう使い物にならなくなっていたということになります(もしかしたら最初から?/苦笑)
安倍晴明が活躍していた時代の陰陽道はもはや実践的な学問ではなく、もっぱら信仰の領域(物忌とか)で活用されるレベルに留まっていたのでしょう。当然、関東地方における治水・測量においても安倍晴明はもっぱら信仰の対象としてのみ祀り上げられていたに過ぎなかったはずです。
余談になりますが、こうした陰陽道の「机上の空論」ぶりを見ると遣唐使で唐に渡ってそのまま故国に戻ることができずに亡くなった阿倍仲麻呂が安倍晴明と深い関わりを持つ(場合によっては先祖とも)とされている…というのは皮肉以外の何物でもないですね。
さらに、現在京都にある晴明神社は有名な観光スポットとして多くの参拝客を集めていますが、有名になったのはごく最近、冒頭で触れた夢枕獏氏の「陰陽師」とそのメディアミックス化以降、90年代半ばくらいからでしょうか。それまではあまり有名ではありませんでしたし、まして「京都を代表する観光スポット!」として紹介されるようなことはなかったはず。
この点は覚えている方もいらっしゃるのではないでしょうか?
なんでも80年代までは京都駅でタクシーを拾って「晴明神社へ」と言ってもタクシーの運転手が場所をわからなかったそうです。
おそらく21世紀に入ってもっとも出世した神さまなのでしょう。
そうなると現在の知名度、名声を基準に昔も安倍晴明が広く社会で知られていた、と考えるのはちょっと危険なのかも知れません。(歌舞伎や仮名草子などのメディアである程度知られていたとはいえ、地方での知名度はいかほどであったか?と考えると)
こうした安倍晴明&陰陽道を巡る状況から女化稲荷神社の伝説が形成されていった経緯を以下のように推測してみたいです。
1.治水対策や河川氾濫を防ぐ祈願のためにこのエリアに縁がある安倍晴明が信仰の対象として祀り上げられた
2.しかしもともと地方の一般社会ではそれほど安倍晴明はあまりポピュラーではなかったため、名前は早々に忘れ去られ、伝説が換骨奪胎されたうえで伝えられた
↑は女化稲荷神社の地図です。やや東に先述した根本女化稲荷神社があります。両神社とも東に霞ヶ浦、西に牛久沼、南に利根川を挟んで印旛沼があります。
もちろん、現在と昔では状況が違う(とくに利根川。印旛沼も現在とは比較にならないくらい大きかったはず)わけですが、それでも水に縁がありそうなエリア。
さらにこれらの湖・沼・池・川にはかっぱをはじめとした水の妖怪の伝説があります。こうした水の妖怪は人間にもたらされる水害の象徴(犯人?)である、というのはよく聞く話です。
そうなるとこの女化神社の伝説にはもうひとつ、「こうした水の被害をもたらす妖怪と戦うためにキツネ(稲荷の神)の力を借りようとした」という面も考えられるのではないでしょうか?
ただキツネはご利益をもたらすだけでなく祟りももたらすちょっと怖い面もある。でも人間とキツネの間に生まれた人間なら人間側に立って人々を水の妖怪から守ってくれるのではないか?そんな考えが当時の人たちの間になかったか?
それが安倍晴明の名前は忘れられてもキツネと人間の間に生まれた伝説は大事に受け継がれ続けた、自分たちの地域にはキツネの霊力を受け継いだ人たちがいる、それが水害をもたらす妖怪から自分たちを守ってくれるの違いない…みたいな。
いくらなんでも邪推に過ぎる、という意見は甘んじて受ける覚悟であります。
で、この安倍晴明が編纂したと伝える「簠簋内伝」にしろ「 簠簋抄」にしろずいぶんと難しい漢字が使われているわけですが…「この簠簋ってなんじゃい?」という疑問に対する答を先日意外な形で知ることができました。
東京国立博物館で儒教に関する特別展示が行われていたのですが、↓はそこで撮影してきたものです。
「簠」と「簋」、いずれも祭器のこと。…名前からして陰陽道とは実践的な学問ではないのが最初から明らかな感じ?(笑)
と、かように女化稲荷神社はとても魅力的なスポットとなっております。そこでわたくし、この神社を訪れた経験と味わった感動を元に物語を書こうと目論んでおります。筋書きはまだ何も考えてませんが、タイトルだけはすでに決定。それは…
「オナバケ姫(Princess Onabake)」
...あれ?なんかのパクリっぽい?
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