老化と向き合う・変化を受け入れる・何かを補う身体
この頃、実感するのは、同じことをしていても、以前とは同じというわけではないということです。
例えば、「一晩寝れば元気回復」が当たり前だったのに、「一晩寝ても疲れが抜けない」とかいったこともそうですし、同級生たちよりも十年ほど遅いと豪語してはみるものの、最近「老眼かも…」と思い当たるシーンが増えてきました。
常々、「『トシだから』を免罪符にしない」とは思いつつも、身体の変化は受け入れて行かなければならないところもありますね。いえ、むしろ、変化にどれだけ即応できるか、ということが、よりよく毎日を過ごすためのコツなんだろうな、と感じます。
おそらく、これから視力も聴力も、そして運動能力も、どんどんと衰えて行くことだろうと思います。
前できたことが同じ感覚でいると出来ないという現実を受け入れることは、辛さを伴うことでもあります。
ただ、パラリンピックのアスリートたちの活躍に接すると(←実際には、忙しくてほとんど拝見することができませんでしたが…)、何かの機能を失ったとしても、身体にはそれを補う働きが備わっていて、そこを磨くことができる、という事実にただただ驚くばかりです。
音楽をやっていると、特に有毛細胞の損傷に伴う高周波の聴取能力の衰えとか、イメージ通りに身体が動かない巧緻性の低下等、とても気になります。それはそれとして受け入れて行かなければならないとは思うのですが、脳には加齢に伴う神経細胞の減少を補う手段があるらしいですし、脳のいくつかの領域においては高齢期でも新しい神経細胞が作られるらしい、かつ、脳には余剰性がある(←要するに人間として活動するのに十分すぎる量の細胞が高齢になっても存在する)ということのようですから、その力の存在を信じることはとても重要ではないかと感じています。
特に、演奏活動を行う者に必要なのは、デフォルトモード・ネットワークで処理するパーソナルな経験に基づく豊かな感情世界の構築、すなわちイメージの統合力です。ここは、圧倒的に経験値がものを言う世界であるようです。イメージの豊かさ、これは、いくつになっても追求することが可能だと思われます。
最近、私のスタジオでは、それこそ世界の檜舞台を目指す若者たちの、可能性にみちた見事な演奏を多く耳にしますが、彼らの演奏は、若々しい魅力はあったとしても(もちろんそれは若い者だけに許されるかけがえのないものですし、若者の特権ともいえるでしょうが)、一方でどこか未熟さを伴うものです。「まだまだ青い」という感覚でしょうか。
ところが、大人世代の演奏は、それこそ巧緻性では劣後するところもあるだろうと思うのですが、圧倒的に「訴える力」が強いのです。それは、若い演奏家たちよりも、演奏にあたって多くのネットワークを総動員しているところにあるのかもしれません。実際、若い演奏家の脳の使い方と、大人世代の演奏家の脳の使い方は違うのだそうです。どうやら、大人世代の方が、脳の機能を広範囲に使うらしいです。
ということは、年をとることで、また新しい演奏の可能性があるということではないかとも思います。それはときに何かを補うものなのでしょうが、だからこそ驚異的な働きが発揮される可能性がある、ということかもしれないですね。