【あ~あ 残念なピアノ弾き 「イメージはあるけれども、技能が伴わない」 ― それ本当にそうでしょうか?】
ピアノに限らず、楽器を学んでくると、その習熟度に応じて、更なる課題というものが現れます。
私が拝見したところ、ある程度の年数学習を続けてきた人であっても、例えば以下のような課題を抱えている方は結構多いのではないかと思います。
・抑揚を適切かつ自在に表現することができるフィンガーコントロールが身についていない
・その楽器が有する最もふくよかな響きを引き出すことができない
・喜怒哀楽を切実に表出することができない
どれもこれも、特効薬で治るような類のものではないですね。
ところで、表現力を身につけるための学習事項という観点で考えたとき、ざっと①「表現のあり方に関する事項」と②「表現を実現するための身体コントロールに関する事項」に大別されると思います。
例えば、先に挙げた上述の3つの課題については、どちらかというと最初の二つは②「表現を実現するための身体コントロールに関する事項」といえるかもしれません。
運動巧緻性は、加齢とともに衰える領域であるうえに、幼少期から青年期にかけての適切なトレーニングの蓄積がものを言う世界ではあるため、年齢が上がるについて「もうトシだしな~」という気分に陥りがちになります。
そうすると、つい、こういう言葉が口をついて出てくるのではないでしょうか。
― 「思ったように身体が動かないので、どうも思ったような表現ができない」
でも、ここで、例の「嫌味婆K子」さんによる「ちょっと待った」発言が。
「イメージはあるけれども、それを身体で表現できないのだ」という言葉、それもっともらしい嘘だからね。
ほんとはね、イメージそのものが貧困だし、深耕できていないのよ。
それとね、大人になると、感情的になることをよしとしない環境で長年暮らしたこともあって、そもそも感情に蓋をする癖が身についてしまっているから、感情そのものを感じることが出来ない人も多いのよ。
感じていないもの、表現できるわけがないじゃない。
「イメージはあるけれども、技能が伴わない」という段階にすら達していないことに気づくべきね。
またまた耳に痛い言葉ですね。
でも、実は、私自身もこの点否定できないなと思っています。
喜怒哀楽・心象風景 ― そういうものが決定的に欠如している場合も多そうです。
そこでふと思うのです。
自然の風景・時代の空気・精神的な葛藤・人間的な感情 ― そういうものへの共感がないと、そもそも音楽表現を深めることは難しいと思います。
例えば、シューベルトの「楽興の時」で求められるような、自然の息吹・人々の営み・素朴な感情 ― そういったものへの共感がない限り、「脱力が…」とか「タッチが…」とかそういったものをどれだけ追求したところで、到底その豊かな世界を表現することは難しいだろうと思います。
結局、「自分がイメージした以上のものを表現することはできない、だからこそイメージを深めていくことが肝要」という原則に常に立ち返る必要がありそうです。