ライプツィヒの思い出
以下は、もう随分昔(20年以上前)、ライプツィヒを訪れた感想を綴ったものです。今回、こちらに掲載するにあたり、若干もとの原稿を改めたところがあります。
------
「バッハに会いに行こう!」
そう思い立って、楽聖ゆかりの街ライプツィヒにたどりついたのは、初夏の日差しもまぶしい五月のはじめ。ベルリンから列車で約2時間、のどかな景色の果てにたどりついたこのザクセンの都市は、高層ビルと中世風建築とが林立する不思議な空間であった。午後7時を過ぎてもなお、昼下がりのように明るい夕刻の空の下で、これらの異質な建物のシルエットは、いかにも共存共栄が可能だと言わんばかりに、お互い堂々とその個性を主張していた。
バッハがトーマス・カントールとしてその後半生を過ごしたライプツィヒ。楽聖が逝ったあとのこの地には、遊学中の若きゲーテの姿があった。あるいは、マタイ受難曲を甦らせたメンデルスゾーンが、ゲヴァントハウスのカペル・マイスターとしてこのライプツィヒでめざましい活躍をしていた。あるいは、我が国が誇る文豪鴎外も青年時代の一時期をこの地で送っていた。眼前に広がる町並みは、数々の知性と文化をはぐくんできたのである。
このライプツィヒこそは、ザクセン選帝侯国内にありながら、古来自治を認められてきた都市であり、それゆえに自由で進取の気風に満ちた街としても知られている。先般来日したブリュートナーの若社長(五代目)も、「根っからのライプツィヒっ子」を自負されているのか、こうした自由なライプツィヒ気質を随分力説されていた。自主自立を尊ぶこの街の市民の力が、大きなうねりとなって、かの愚かしいベルリンの壁をも打ち崩したことはあまりにも有名である。そして、驚くなかれ、それはわずか十年前のことなのだ。
夕刻、アルトシュタット(旧市街)をそぞろ歩きしてみる。なるほど、視界の中に必ずと言っていいほど工事現場が入ってくる。この街の至るところで、槌音が鳴り響いているの感がある。しかし、ここの人達はよほど勤勉なのだろう、統一前の姿は話にしか聞いていないけれど、たった十年でかくもきれいになるものだろうか、と思うほど見事な復興ぶりであった。街には、洒落たカフェが沢山あって、どこもお客で賑わっている。仕事を終えた人たちが、楽しそうに夕暮れのひとときを送っていた。
それにしても、ひときわ賑やかなのが、なんとトーマス教会東側広場前のクナイペなのだから、これはもう驚き。そして、街のあちらこちらに、あの「こわもて」のバッハのポスターがベタベタと貼ってある。なんだか人気アイドルのポスターみたいである。
トーマス教会前には、かの有名なバッハの銅像がある。そのすぐ傍らにある「トーマス・ショップ」というのが、これまた笑いを誘う。ガラス張りの店舗で、バッハのロゴマーク入りのTシャツをはじめ、いろいろなバッハ・グッズを売っていた。そのさまは、まるで「アイドルのお店」。店番をしているのも、「この頃の兄貴」という風情で、これがまた意外な面白さであった。
次の日の朝8時前、お散歩がてらトーマス教会のあたりへ行ってみた。朝日がやわらかな白い教会の壁面を美しく彩っている。なんともあたたかみのある、それでいて素朴な雰囲気のする教会だ。朝のすがすがしい思いとともに、ぼうっとトーマス教会を眺めていたら、いきなり目の前の芝生のスプリンクラーが稼動した。と、思ったら、今度は道路清掃車がやってきた。
それにしても、ここの人達はなかなか勤勉である。朝も早くから、道という道を清掃係の人達が、ニコリともせず黙々と掃除している。そう、昨晩あんなに皆が飲んで騒いでいたはずなのに、不思議に歓楽街の不潔さがないのは、こういう人達の労働のおかげなのかもしれない。あんまり真面目に皆がせっせせっせと掃除しているので、私も写真を撮ろうと出していたカメラを思わず鞄の中にしまったのであった。
トーマス教会にあるバッハのお墓を訪れたのは、土曜日の朝9時過ぎのこと。朝一番でも、それなりにここを訪れる人は多かった。入口にトーマス教会の案内チラシが各国語で用意されている。自分で50ペニヒ玉を入れて勝手にとっていくしくみになっているのだが、お金を入れる箱はもういっぱいでこれ以上一枚の硬貨も入らないほどであった。我々の隣にいた、初老の夫婦が、フランス語で「仕方ないね、じゃここに入れましょう。」と、献金箱を指さすものだから、我々もそれに従うことにした。そう、ここは各国からつめかけたバッハ詣での人々でいっぱい。ほとんどドイツ語オンリーのこの街にあって、ここだけは英語やら日本語やらフランス語やらが飛び交っている。
土曜日ともなれば、ライプツィヒでも、あちらこちらでバッハが演奏される。ゲヴァントハウスのグローサー・ザールで、専属オルガニストのミヒャエル・シェーンハイト氏によるオルガン・チクルスがあるというので、早速チケットを入手して聴くことにした。入場料は、たったの9マルク、日本円にしてわずか450円、プログラム・ノートに至っては42ペニヒであった(ちなにみに最初値段を問い合わせたときに42と言われて、一瞬マルクかと思って随分驚いたが、案の定マルクではなかった)。
開演に先立ち、演奏者から実演つきの楽曲解説が30分程行われた。シェーンハイト氏の解説は、個々の動機、和声等々、詳細をきわめたものらしかった。らしかった、というのは、残念ながら独語ゆえに半分以上理解できなかった、ということである。またしても、自分の語学能力不足を嘆かざるを得ない場面に出くわすことになってしまった。氏の語り口はきわめて熱っぽく、また聴衆も舞台上に設けられた折り畳み椅子に腰掛けて、氏のレクチャーに熱心に聴き入っていた。
一連のチクルスは、このときで15回目ということであったが、どうも月一回こんな調子で開演前にレクチャーが行われているらしい。しかも、聴き入っているのは、どう見ても地元の人、それもマルクト(市場)に買い物に来たついでにホールに寄った、という雰囲気の人が多い。あるいは、このチクルスにあわせてアルトシュタットに出てきた、という感じなのか…。週末の午後にバッハのオルガンを聴くこと、これは日常の生活の一部であって、特別なことでもなんでもない、ということなのだろうか。通常我々が、ある種の気分を抱いて音楽会に行くのとは、どうやらかなり様子が違っている。
それにしても、 RES SEVERA VERUM GAUDIUM の銘のあるオルガンから響きわたるバッハの音楽は、今まで日本で聴いてきたどのオルガンの演奏会よりも、質の高いもので、これがまた私を一層驚かせた。シェーンハイト氏の演奏は、レクチャーの気分をそのまま本番にまで持ち込む熱演であった。何と評したらよいのだろう、一口に言って「生気あふるる演奏」といったところであろうか。
バッハのヴァイマール時代の名作、ファンタジーとフーガ BWV 542 。その壮麗で劇的な世界を、シェーンハイト氏は実に活き活きと圧倒的な説得力をもって再現してみせた。そこにあるのは、もうノリノリの音楽。そして、あの壮大なフーガが奏でられたとき、私はシェーンハイト氏の身体にバッハの霊が乗り移ったような気がして、軽い眩暈を覚えた。これは錯覚?…いや、バッハは確かにそこに息づいていた…。
かつて、他の誰も真似ができないような華麗なレジストレーションをやってのけ、鮮やかに足鍵盤を捌いていた大バッハ。そんな演奏スタイルは、どうやら今もこの地に脈々と受け継がれていると見える。そのあふれんばかりのエネルギー。ともすれば、論理的で堅苦しいという印象が強くなりがちな「こわもて」の大家、でも、その音楽の本質は「漲る生命力」にあったのだ。
これが、バッハか、そう思いながら会場を出た。あたりはまだ明るかった。ゲヴァントハウスとオペラハウスとの間に広がるアウグスト広場では、アイスクリーム・スタンドやジュース・スタンドを出していた人達が、せっせと後片付けをしていた。そう、このアウグスト広場では、この日一日五月祭が行われていたのだった。ここは、初夏の週末を家族で楽しむ人達でごったがえしていたのだ。
帰国後知ったことだが、この広場は十年前まで「カール・マルクス広場」という名称だったそうだ。しかも、ニコライ教会を拠点に行われた市民のデモ活動を鎮圧しようとした当時の政府が、この場所に戦車を配備したという…。
だが、私の見た広場は、そんな物騒な場所ではなかった。合唱をする子供たちの歌声、ストリート・ミュージシャンの音楽、そして、彼らの大好物 EIS (アイス・クリーム)の露店。美しい五月の青空の下に、人々の笑い声が渦巻いていた。
広場から西へまっすぐトーマス教会へ向かう。あたりは、カフェに集う人々で賑わっていた。トーマス教会には、ちょうどテレビの中継車が横付けされていて、放送用のひときわ明るい照明が教会の塔をくっきり照らしている。20時から教会で La Petite Bande によるバッハの演奏会が行われるのだ。教会は、演奏会を聴きに集まってきた人々でごったがえしていて、熱気すら感じられた。だが、そのむんむんするような熱気を押しのけて分け入っていくだけの元気は、もう私にはなかった。
どうやら、この街は、底知れぬエネルギーを秘めているらしい。このエネルギーこそが、この街を日々変貌させる原動力なのだろう。この街は、これからも凄まじい勢いでその姿を変えていくに違いない。しかし、同時にこの街は、不思議なほど見事に伝統を守ることができるのだ、それも絶妙なバランスでもって…。伝統と発展の調和を模索しながら、日々新たな生活を追い求めて急ぎ行く街。はるか東の国からの訪問者が垣間見たのは、そんな躍動する都市の強烈な生きざまであった。
2000年7月28日記 (没後250年の日に) … 一部改稿しています
●公式サイト