【あ~あ 残念なピアノ弾き 雰囲気で何となく…になっていませんか?】
「あ~あ 残念だな~と思えるピアノ弾き」にありがちな「残念ポイント」について、自戒をこめて綴るシリーズ、前回に引き続き、本日もブラームスの3つの間奏曲 Op.117 をとりあげます。
ちなみにこの作品、若い頃からから折にふれて弾いてきた曲です。先般昔の録音が出てきて、おそるおそる確認しようとしましたが、もう聞くに堪えないもので、数秒再生したところで止めてしまいました。そんな残念きわまりなかった思い出への反省文をお届けします。
3曲目の指定が Andante con moto であることについては、前回お話した通りなのですが、実はこの3つの間奏曲、全て Andante から始まるところが興味深いですね。もっとも、3曲とも同じカラーであるはずがないわけで、その違いについては、ブラームス先生 Andante の後ろの部分で明確に指示しているように思います。
Andante moderato
Andante non troppo e con molto espressione
Andante con moto
この3つの間奏曲、ブラームス自身が「我が苦悩の3つの子守歌」と称していたとされる作品群で、派手さからはほど遠い深遠な響きに満ちていることもあり、特に「渋好み」の「おとな世代」に愛されることが多いように思います。
技術的な観点からしても、一見それほど難しそうには感じられません。 ← 本当はそこが勘違いなのですけれどね~!
超速テンポの曲も含まれておりませんし ― 何たって Andante ですから ― この曲のもつ雰囲気の虜になると、気軽に手をのばしてみようかなと思いたくなります。
ですが、ここに陥りがちな重大な落とし穴があります。
それは、雰囲気で何となく弾いてしまうこと。
もちろん、その曲の雰囲気を表現することはとても重要です。あるいは、インスピレーションこそ表現の源泉です。表現には、無数の可能性もあるはずですし、自分がその曲にどのようなことを感じるのか、ということをおざなりにしていい理由は一つもありません。
それはそうなのですが、同時にそのときに問題が起こりやすいのです。例の「嫌味婆K子」さんに言わせると、こういうことらしいです。
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残念族ほど、自分勝手な薄っぺらい解釈だけで弾いてしまう。
よくあるのは、耳コピ感覚で、雰囲気だけで弾いてしまう。
ご本人は、表現したつもりになっているし、むしろ自分自身の表現に酔っていたりするのよね~。
でも、ひとりよがりなだけ。
作曲家無視も甚だしい。
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またまた、随分キツイことを…。そんなこと言われたら傷つきますよね~。
ちなみに、「耳コピ」能力については、ないよりもあった方が絶対いいと私は思っています。むしろ、人間は自分で聞きとれた範囲のものしか、自分で表現できないわけですから。
ただ、「耳コピ」が得意な方の中には、「耳コピ」だけに依拠して、楽譜を無視してしまうケースが見られる、そこを「嫌味婆K子」さんは例によって毒舌で斬っているようです。
ささ、いつまでも、毒づいていないで、先へ進みましょうか。
今回、私がとりあげたいのは、2曲目の Andante non troppo e con molto espressione です。
この曲、まさに心の内から押し出だされたかのような憧憬が表現されるすばらしい作品です。その狂おしいまでの憧憬は、ときに大きなうねりを見せながらも、最後は哀しみを秘めながら目を閉じる…そんな風情でしょうか。
すてきな曲ですよね。
で、この曲の雰囲気に酔っていると、残念族の場合、どんどん鈍重になってしまうのですよ。ブラームスだし…。テンポもノロノロ~耽溺~撃沈~!!
でも、ちょっと待って下さい。
この曲、8分の3拍子ですよね。4分の3拍子ではないのはなぜ? しかも、16分音符ではなく32分音符で記載されているのはなぜ? そこ、ちゃんと見ていたでしょうか?
それに、そもそも non troppo とありますよね。どうとらえるべきなのでしょうか。
いろいろな考え方があると思いますが、私自身は、32分音符で記載されることで、どこか軽さが感じられるその質感が、 Andante ではあっても前進していくその感覚が幾分減じられ、重い足取りではなく、むしろ流れていくような、そのほどよい匙加減が求められる、そこを non troppo という言葉で端的に表現している、と考えています。
しかし、同時に、 con molto espressione も求められているのですよね。そう、どこをやりすぎずに、どこをたっぷり表現するのか。「一見それほど難しそうに感じられない」なんてとんでもないですよ!
<写真譜例はウィーン原典版 №50023>
●公式サイト