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おいしいコーヒーが飲みたくて

「よし、今日も良い動画が撮れたぞ。」

そんな満足感の中、昨日近所のスターバックスで買ってきたアイスコーヒー用の粉をドリップする。

昨日イライラしていたことはすっかり忘れていて、アイスカプチーノ用の牛乳を規定のラインの少し下まで入れる。

2月にインドを旅して以来、大のスターバックス好きになり、母の日のプレゼントまでスターバックスアプリで注文した。

インドで安心してくつろげる店は(いろんな意味で)スターバックスぐらいで、1日3回行く日もあった。

きっかけは分からないものだ。

僕の仕事はユーチューバーで、良い動画が撮れた日のコーヒーの味は格別だ。

そんな時はコーヒーを飲み終えた後のコップを洗う時でさえ楽しい。

一昔前ならユーチューバーは憧れの職業だったが(今でもそうであると言って欲しい)、最近ではYouTubeを辞める人も少なくない。

余談だが、インドでは今まさにユーチューバーが憧れの職業だ。一眼レフを持ってその辺を歩くだけでたくさんの若者から声をかけられた。

ウーバーに乗ってもドライバーが若ければ質問攻めだ。

「What do you do?(君の職業は何だ?)」必ずこのフレーズから始まる。

欧米ではもっと冷めた反応だ。日本でも似たようなもので動画制作は「遊び」とみなされている。少なくとも僕はそう感じている。

誰かに認められたり、褒められたりすることはとても重要で、毎日自信を持って過ごしていると物の感じ方まで変わる。

僕がYouTubeを始めたきっかけはお金を稼ぐことではなく(それもあったが)、「自分らしくいるため」だった。

今、日本だけではなく世界の主要都市でも犯罪率が上がり、リモートワークの普及でオフィスビルから企業が撤退し、周りの飲食店も廃業に追い込まれている。Yahoo!ニュースにはそう載っている。

特に若者が何かに希望を見出したり、「自分らしくいる」ということは昔よりも難しくなっているのではないか?

インドでユーチューバーが大人気なのは、もしかしたらカースト制度を飛び越えて若者が「自分らしく」活躍できる希望の場所だからなのかも知れない。

気のせいかもしれないが、インド人は今自信を持ち、日本人は今自信を失いつつあるように思える。

それはふとした瞬間の表情だったり、なんとなくの「これから良くなる(悪くなる)」という空気感だろうか。

ただインドには問題が多く、特に貧困の問題や犯罪の問題は根深いとインド旅行時に良くしてくれたネパール人のマダフは言っていた。(ネパール人がインドに行くのにはパスポートもビザも必要ないらしい)

舗装されていない道や海で身体を洗う人、地べたで寝そべる人にも驚くが、その横をドブネズミが歩いている光景は日本人なら誰でも衝撃的だ。

動物と人との距離がいろんな意味で近い。

話は戻るが、誰かに認められたり褒められたりするためには「自分らしくない」方が良いことも多々ある。

自分の「好き」を追求するよりもトレンドに乗った方が多くの人に注目されやすい。

こうなると「自分らしくありたい」から徐々に「認められることをやる」に知らず知らずに移行していく。

注目されたり・されなかったりを繰り返しながら鬱状態になるユーチューバーもこれまでに多く見てきた。

最初は自然体で始めて、それから数字を追うようになり、自分らしさを忘れていく。

いろいろ葛藤もある。

ところで、僕は今おいしいコーヒーを毎日飲めている。

これは僕自身の「幸福の尺度」として機能している。

「自分らしく生きている=おいしいコーヒーが飲めている」という方程式が成り立つからだ。

「自分らしく生きる」について考えてみると、
「今の状態が良い」
よりも
「未来がもっと良くなる」
と思えることの方が重要だ。

「右肩上がり」とか「視界良好」という言葉が思いつく。

おいしいコーヒーの条件があるとするならばそれは「味」ではない。

おいしいコーヒーを淹れるために「手間をかける時間」だ。

わざわざコーヒー豆を買いに行き、
わざわざドリップして、
わざわざカプチーノの泡を立て、
ケーキやお菓子と共にコーヒータイムを設ける。

自動販売機でコーヒーを買えば一瞬で終わることだ。

先に述べたようにインドでは一眼レフを持っていると若者から羨望の眼差しを向けられるのに対して、欧米や日本では冷めた眼差しを向けられる。

これには「自由」が影響しているのではないか?

インドでは自由が少なく、欧米や日本では自由が多い。

一方ではルールをぶっ壊す正義のツールが一眼レフであるのに対して、一方ではただの映像を撮るツール+楽な小銭稼ぎという具合だ。

話は変わるが、自分らしくないトレンドに応じた動画を作り続けていくとなぜ鬱になるのか?

それは自分と自分の仕事がどんどんかけ離れていき、ついには自分を見失うところまで遠くに来てしまった時に起こる。

多くの人は1日の大部分を仕事の時間に充てている。その大部分の時間と自分自身とのギャップが大きくなれば心への負担はどんどん大きくなる。

仕事が楽しくない
意味のないことをやっているように感じる
ついには「自分の仕事は無価値だ」
と思い出したらこれは鬱だ。

僕は2020年の緊急事態宣言時にこの感覚に陥った。

同じ時期に鬱になった人は少なくないことは想像に容易い。

いきなりだが、もう一つおいしいコーヒーを飲む条件を伝えたい。

さっきは「手間暇かける時間」について話したが、今度は「俯瞰」について。

俯瞰とは高いところから見下ろすという意味だが、ここでは自分の状況や過去・現在・未来の全体像をつかむという意味だ。

一生懸命になるとどうしても視野が狭くなる。

何かを頑張ると何かに集中するから俯瞰が困難になる。

自宅に閉じ込められると俯瞰など不可能だ。

これが緊急事態宣言で多くの人が鬱になった原因だろう。

1つの場所
同じメンバー
限られた選択肢
人から希望を奪うにはこの三拍子にかぎる。

俯瞰は多様性によって生まれるが、実際簡単には手に入らない。

普通は家と職場の往復だけ
普通は同じメンバーだけ
普通は多くの選択肢を意識することがない
普段から鬱を生み出しやすい環境に身を置いている人が少なくないという意味だ。

俯瞰には「自分らしさ」が必要になる。

自分らしさが分からないと、他のことも分からない。

人は自分を起点として考えるから、自分が分からないと他のことも分からない。

僕の最近の動画は自分らしい。(完全に思いつきで撮っている)

過去のヒット動画には自分らしくないものも多くある。(よく分析してトレンドを掴んだものだ)

自分らしい動画には価値があると思えるのに、自分らしくない動画には価値がないように感じる。

それが例え3000万回再生されていても、不思議とそう感じてしまう。

人からの評価によって多くのものが得られるし、物事の見え方さえも変わるのになぜ人は自分らしさに好感を覚えるのだろうか?

それはやはり自分と自分の仕事の距離が近い、もしくは一致しているからだろう。

どんなに上手なテクニックを使って遠くまできても、いずれは自分と自分の仕事が一致しないと破綻してしまう。

破綻は1年後かもしれないし、20年後かもしれない。

僕はこの破綻を「コーヒーがおいしいか?」で毎日チェックしている。

おいしいコーヒーが飲みたい。

ただそれだけのために毎日を過ごしたい。

カプチーノの泡立ちが良い時は特に気分が良い(しかし多分泡立て方は間違っている自信がある)
通い詰めたインド・ムンバイのスターバックス
ムンバイのYouTubeオフィスで働く人々は「インドはアメリカのYouTubeを超える」と自信満々だった

#創作大賞2024 #エッセイ部門

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高稲達弥 | マッスルウォッチング
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