ドロップアウトから還ってきたやつらと中華円卓を囲みたい。
最近、山月記を久しぶりに読みました。
これです。
皆さんも、高校でドロップアウトしていなければ、一度は読んでいるでしょう「山月記」。
簡単にあらすじを振り返ると(ネタバレ)
ラストは省略。青空文庫にあるので、そこで読んでもいいし、⇧のオモコロの記事を読んでもいいです。
山月記、今読み返すと、これは単に変体の話なのではなく、
完全に人間のドロップアウトの話をしていますね。
でも、山月記に真に共感できるのは、ドロップアウトを経験した人間にしかできないと思います。高校生の時の俺は「んえ~~~人生失敗して虎になっちゃた悲しい話だな~~~と思っていたので。」
「虎」に関しては、物語上のわかりやすい表現と思っていました。
しかし、これは、人間的にダメな時期=ドロップアウトして落ちている時代の人間に巣食う闇の心が「虎」だといっているのでしょう。
李微は虎から帰ってこれませんでした。
だから高校生向けなんですよね。中学で習う走れメロスはハッピーエンドです。
多分、これから学年で数人現れるであろうドロップアウト組に対して、君たち負けてもいいが腐るなと。文科省からのエールです。
BADエンドで終わるから、君たちはこうなるなよと、伝えてる気がします。
私は高校途中で辞めて、地方にぶっ飛んで、なんかベンチャーでメンタルぶっ壊して、最終的には一つ形を残して辞めて、今なんとか生きている人間なんですけど、
自尊心と羞恥心が人間を腐らせるというのは、だいぶ的を得ていてるなと思います。(偉そうに上から目線ですが…まあ1サンプルの意見だと思って読んでください)
イキのいい若者は大体が謎の自尊心を持っています。
多分ちょっと勉強ができるとか、あいつらより色んなことを知っているとか、要領よくやればできる人生を生きてきたとか。
あんまり恥ずかしい経験を積まなかった(なんかできて褒められた)から、恥ずかしい経験に対して無限の恐怖、尊厳の死みたいな感覚を持っています。
でもそれで、ある程度結構うまく行っちゃた人は、高校卒業してくらいから、色んな壁にぶち当たって、一部、ドロップアウトします。
高校までは用意された場で自尊心を育めますが、大学、社会に出てからは全選択を自分で選ぶので、謎の自尊心が力を発揮しません。
そこで、基礎がグラついて倒れそうな自尊心を支えられる何かが見つかればいいのですが、ここで羞恥心が性能を発揮してしまうと、新しいことに挑戦できないので、結果、謎の自尊心は形を獲得できないまま崩れます。
謎の自尊心に名前を与えて、健全な自尊心(尊厳)と共に生きていければいいんですけど、肥大化した自尊心ほど、名前を付けるのは難しいんですね。
一度折れ曲がって倒壊した自尊心と折り合いをつけて、過去を清算し、エンジンにぶち込んで、かすかな燃料として燃やして、人生再スタートする。
そんなことをする必要が多分どっかで現れます。こういう人間には。
そうして、帰ってきたやつらと一緒に、安くてウマい中華を食いに行きたいですね。
みんな一人一人の人生を聞いて、酒で流して、今こうやって笑いながら飯食ってる世界を目指したいです。
俺はまだ、ちょっと帰ってきただけで、まだ、何も成し遂げていないので、いつか。
李微のできなかった、家族と友人との楽しい食卓をいつか創造したいもんですね。
醜態は、積極的に晒していった方がいい。
どうせ今のやつらと10年後、5年後、一緒にいる確率は低い。
俺と一緒にいる奴は、俺だけ。
醜態を晒すことに慣れたら、なんでもできる。
子供は、なんでもできる。
最近、高校2年だった時に書いた自分のnoteを読んだ。
なんだんだこいつは。このエグイ行動力はなんなのか。
今みたいに、現実に流されているだけじゃなく、目の前にあるもの、すべて掴みに行って、今できそうな楽しいことに全力で向かっていた。
これが、俺だったのか。
この時は、本当に本当に楽しかった。
何も知らなかった時期。
世界も、社会も、大人の都合も、自分の限界も、
全部体当たりで、というか突進で、
無い道を突き進んでいた。
今は、色々知った。
責任とか、リソースとか、費用対効果とか、
損得の計算をするようになった。
そんなこと全く考えずに楽しいことにつき進める人たちが羨ましいなと感じている。いつの間にか、何がしたかったのか、今何をしたいのかも不透明になっている。
その寄り戻しで、最近旅ってやつに惹かれてるのかもしれない。
無意識に始まった。なぜ、たまにフラッと旅をしているのか、まだよくわからない。
旅ってやつは、私(のキャラクター)から離れて、何も考えず、世界に醜態さらすような行為。
私はなんにもできない存在です~~~~~~。という意思表明。
人間多分、なんにもできない存在なので、本質的に自尊心なんてものは嘘であって、ただ、自分が腐らないようにするための信念であって、実際的には虚構。
高2の時の俺に、自尊心とかは多分なかった。
今、今、今で進んでいたら自尊心とかはいらない。
動けていないときに、自尊心を見つめることになる。
羞恥心は、動くのを邪魔して、動かないことを正当化する、大元のやつ。
動かない理由を作って、うんぬんかんぬん、の元。
今の自己像への所属欲求。
高2の時の俺に、自己像とかも多分なかった。
自己を探していたのも、あるのかもしれない。
今の自己像は、いつからできたのか。
それは、めちゃくちゃ本気で守りたいものなのか。
あれ?今、何を守っているんだっけ。
そう、今。