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武蔵野大学発祥の地、築地本願寺で新作能「親鸞」を上演!~夢と現実が融合した日~

みなさんこんにちは、学生広報チームの金川です。
今回はついに、私が過去の記事でご紹介していた新作能「親鸞」の公演に参加してきました。当日演じられた能や狂言の様子をお伝えしたいと思います。
記事を読んでいただくにあたっては、新作能「親鸞」や能の魅力について取材した、こちらの記事を一読してからだとより楽しめるかと思います。お時間がありましたらぜひ読んでみてください!


「親鸞聖人 夢と教え」と3つの記念

6月29日、重要文化財にも指定されている築地本願寺の本堂で、能楽公演「親鸞聖人 夢と教え」が行われました。今回の公演は、学校法人武蔵野大学創立100周年記念、親鸞聖人御誕生850年と立教開宗800年慶讃法要記念という、3つの記念行事として行われたそうです。

浄土真宗で結びつく舞台

私自身、築地本願寺を訪れたのは初めてです。正門から見える本堂はインドにあるような寺院風の外観が特徴的で、神聖な雰囲気が漂っていました。築地本願寺は浄土真宗の寺院であり、浄土真宗の開祖は親鸞聖人です。新作能「親鸞」を披露するのにぴったりの舞台で、また学校法人武蔵野大学の前身である「武蔵野女子学院」発祥の地でもあるので、非常にゆかりのある場所です。本堂内部に足を踏み入れると、お香の落ち着いた香りが会場全体を包み込んでおり、外観とはまた異なる金色に輝くきらびやかな装飾彫刻も多く、特に上部にある蓮の花の装飾が印象的でした。

 蓮は仏教を象徴する花です。極楽浄土には蓮の花が咲いており、阿弥陀如来が立たれている台座を、蓮座とも呼ぶそうです。築地本願寺のドーム型の屋根にも、蓮の花が彫刻されています。とても綺麗なのでぜひ一度訪れてみて下さい。

築地本願寺本堂 正面

公演には本願寺や大学の関係者、さらには武蔵野大学中学・高等学校の生徒さんも来場していました。ご年配の来場者の方の中には着物をお召しの方もいらっしゃり、開演前は挨拶を交わす姿や、資料を熱心に読む方も多く、開演を心待ちにしている様子がとても伝わってきます。特に中学生の方達が真剣に資料を読み、能舞台を興味深そうに覗く姿が印象的でした。

会場の様子

プログラム

全体の流れとしては以下の通りです。
新作能「親鸞」に先立って、「羽衣」の舞囃子(能の見どころを演じる、略式の上演形式)と狂言「悪太郎」も公演されました。

当日のプログラム

公演は、築地本願寺の中尾 史峰(なかお しほう)氏と、武蔵野大学の長野 了法 (ながの りょうほう)氏のご挨拶から始まりました。

中尾 史峰 宗務長

「築地本願寺を発祥の地とする武蔵野大学の創立100周年記念事業として、また親鸞聖人御誕生850年、立教開宗800年の記念事業として本公演を共催できることは、非常に尊いご縁です。本公演を通して、親鸞聖人の教えがより多くの方々に伝わることを願っております。」

(中尾宗務長のご挨拶の中から)
長野 了法 理事長

「学祖、高楠順次郎博士は浄土真宗の信仰が篤い家庭で育ちました。その浄土真宗の中心地であり、本学発祥の地でもある築地本願寺において、本公演を上演できますことは非常に嬉しいことです。学祖は教育の目標として“仏教の根本精神を基礎とした人格教育”を掲げました。その精神は、百年を経た今も、変わることなく受け継がれています。」

(長野理事長のご挨拶の中から)

また、武蔵野大学能楽資料センター長・文学部教授の三浦 裕子(みうら ひろこ)先生による各演目の解説もありました。三浦先生は3月16日に開催された土岐善麿記念公開講座にも登壇されました。
当日は三浦先生を中心に能楽資料センターの方々が制作・編集した各演目の解説や、詞章とその現代語訳が記されているパンフレットが参加者に配布されました。解説やパンフレットおかげで初めて能に触れる方も楽しむことができ、能や狂言が生まれた背景や、深く鑑賞するための知識を得られてより深く楽しむことができました。

三浦 裕子 先生

舞囃子「羽衣」

最初の演目「羽衣」は笛や小鼓・大鼓の音が本堂内に響き渡る中、シテが舞い始めます。 軽快に場内に響き渡る楽器の音色と共に、舞台の奥の揚幕があがり、シテと地謡、囃子の方々がゆっくりと出てきます。

舞囃子「羽衣」

シテとして天人の舞を舞うのは、能楽シテ方喜多流の友枝 昭世(ともえだ あきよ)さんです。舞を観ていて特に感じたのが、ゆっくりとした丁寧な重い動きにもかかわらず、その重さにはどこか天に舞うような軽やかさを感じられた点であり、手の形や所作の一つひとつが美しかったです。目線や姿勢がぶれることなく、「演技」とはまた異なる天人が「憑依」したような、そんな神々しさが感じられました。

究極的な能の楽しみ方

重厚感のある謡と、独特なリズムで神聖さを奏でる囃子の調和が非常に心地よく、正直なところ、眠気をもよおすこともありました。そんな時、本公演の「親鸞」でシテとして出演される本学の客員教授でもある佐々木 多門(ささき たもん)先生を取材した際、多門先生が話されていたことを思い出しました。

「能は究極的に、催眠状態にある美しさを求めています。昔の人々は現実と夢が融合しているところに美しさ、楽しさを発見していました。」 

その言葉の通りに眠気に身を委ね、謡のキーワードをいくつか聞き取ってみました。「松原」「天の」「月も」などの単語が聞こえ、自身の頭の中に風景が自然に浮かんでくる、心地の良い不思議な体験が出来ました。

狂言「悪太郎」

「羽衣」の後は、狂言「悪太郎」が上演されました。
乱暴者の悪太郎は、がさつな性格から村の人や伯父を度々困らせていました。そんな悪太郎はある日、酒に酔って眠りにつきます。後から様子を見に来た伯父は寝ている悪太郎を出家姿に変え、「今日から汝の名は南無阿弥陀仏である」と告げます。目覚めた悪太郎は自身の姿に困惑しながらも、通りすがりの僧に出会います。僧は「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えています。悪太郎は、僧に対して「なぜ私の名を呼ぶのだ?」と疑問を持ちます。そんな悪太郎と僧との噛み合わない会話のやり取りが面白い作品です。
 
三浦先生の解説によると、能は仮面劇・歌舞劇であり、狂言はセリフ劇・喜劇とも捉えられるそうです。

「『悪太郎』の最後に二人で謡う場面があるように、音楽の力を借りて感動を増幅させようとする発想は、能と同様のもの。登場人物の所作は舞踏のように様式的であるものも能と共通するところです。」

私はパンフレットの解説を読みながら、初めて狂言を鑑賞しました。シテとして悪太郎を演じるのは、野村 萬斎(のむら まんさい)さんでした。狂言師としてだけではなく、俳優としても活躍されており、映画やドラマにも出演されています。

昔の人々が見出した笑い

 悪太郎は見た目のインパクトが印象的でした。装束は能楽とはまた異なった柄と配色で、そして胸あたりまである長い髭が特徴的です。動きも舞台全体を使うように大きく動き、能との違いがはっきり伝わってきます。

シテ・悪太郎の姿

萬斎さん演じる悪太郎の奇怪な所作が面白く、大げさに演じたり、言葉もはっきり、ゆっくり発したりするので、場面の描写が分かりやすかったです。声色や表情の変化が多種多様で、長い髭で顔が隠れてはいるものの、しっかりと表情が伝わってきました。伯父にお酒をつがれるシーンや、僧とのことばのやり取りが特に面白かったです。会場で笑いが起きる場面も度々あり、非常に面白いストーリーでした。このような表現をして良いのか分かりませんが、現代のコントを見ている感覚に近く、他の狂言の作品も気になるほど興味が湧きました。昔の人々の笑いの感覚を感じ取ることができ、狂言の鑑賞を楽しむことができました。

アド・僧(左)とシテ・悪太郎(右)のやり取りの様子

新作能「親鸞」

最後に、本公演のメインである「親鸞」が上演されました。「親鸞」は国文学者でもあった土岐善麿(とき ぜんまろ)先生が1950年に発表し、初演のために1961年に改訂され完成した新作能です。土岐先生は武蔵野大学の前身の武蔵野女子大学文学部日本文学科の初代主任教授としても教壇に立たれています。
前シテ・恵信尼(親鸞の妻)と後シテ・親鸞聖人の2役を演じるのは、佐々木 多門(ささき たもん)先生です。多門先生には前回の取材で本公演に対する意気込みや見どころを教えていただきました。

 「全体を通して土岐先生が何を伝えたかったのか、また親鸞とその妻・恵信尼(えしんに)との関係の尊さ、浄土真宗の考えをくみ取ると楽しめるでしょう。最初の舞台の様子と、演者が去った後の舞台の雰囲気も見どころです。」

取材の際にそう話されていたことを思い出しながら、「親鸞」を鑑賞しました。笛の音色と共に揚幕が上がり、ツレ・田植女が繊細な歩みで登場してきました。各役の詞章(セリフ)は力強く独特な発声で、さきほどの狂言「悪太郎」の雰囲気とは一変しています。舞台に視覚的な背景画が無くても、シテやツレの方の所作一つひとつから風景が見えてくるような感覚を覚えました。

能「親鸞」より前シテ・恵信尼(えしんに)

舞台の進行と共に一変した雰囲気

特に印象的だったのが、後シテ・親鸞聖人が登場する前の演出です。一般に能の登場人物は揚幕から出てセリフを言いますが、その場面では揚幕をあげず、揚幕の内側(鏡ノ間)から語り掛けるという特殊な演出です。
本当に舞台上にシテがいない状態で言葉が聞こえてきました。実際に親鸞聖人や救世観音様にお告げを受けたような、自分の心に語り掛けられたような不思議な感覚で、今も強く記憶に残っています。
 
その演出の後、救世観音菩薩の姿をした親鸞聖人が登場してきます。衣装も大きく変わり、きらびやかな、豪華な装飾のある髪飾りの付いた天冠が印象的でした。舞う度に髪飾りが揺れ、光が反射し、本堂の神々しさとリンクしていてとても美しかったです。舞の後半になるにつれて囃子のテンポも上がり、華美でめでたい雰囲気が会場を包み込みます。
多門先生は恵信尼と親鸞聖人の2役を演じていましたが、全くの別人が演じているようでした。手の動作や扇の開き方、歩き方など細かい所作の違いを非常に意識されているのだなと思いました。
 
舞台上も、上演前に比べて雰囲気が全く異なっているように感じました。能の上演が終わり演者の方々が去った後も、救世観音様がそこに居るかのような、そこには確かに何かの存在感がありました。上演前は、私たちのいる客席と舞台との間に境界線がありました。しかしその境界が取り払われ、まさに現実と夢の境目が曖昧となり融合しているような、そんな感触を味わいました。

能「親鸞」より後シテ・親鸞聖人 (救世観音菩薩が重なるかのような姿)

最後に / ただ鑑賞するだけではない古典芸能

舞囃子「羽衣」・狂言「悪太郎」・能「親鸞」の3つを鑑賞して特に思ったのが、能楽師、狂言師の方々は役を“演じる”ではなく“憑依させる”ような感覚に近いのではということです。表情や動作のどれもが洗練されており、能・狂言の素晴らしさはもちろん、日本の古典芸能という広い意味でも、歴史の重さや価値、奥深さが感じられました。

多門先生も取材時に話されていましたが、これらの日本文化を存続させることにやはり意味があります。普段、私たちが生活する中では接することのない文化なのかもしれません。しかし、能・狂言には「仏教」や「昔の話」といった要素だけではなく、「日本の美意識」「人としての心の在り方・教え」など、多様な価値が詰まっています。

これまでの私の能楽関連の記事を読んでいただき、少しでも日本の古典芸能である能や狂言に興味を持っていただければ嬉しいです。実際に公演へと足を運んでみて下さい。

※学年、肩書は取材当時(2024年6月)のものです

経営学部 2年生 金川 心

【学生広報チームについて】
学生広報チームは2023年9月に活動を開始しました。創立100周年事業プロジェクトの取材を行い、武蔵野大学だけでなく、学校法人武蔵野大学の中学校や高等学校の学生や地域の方々にも武蔵野大学や100周年事業の魅力を発信できるように今後も活動していきます。

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