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「ハレ」と「ケ」の転換と、「笑い」における創造性
「ハレ」と「ケ」。
日本は伝統的に「非日常」と「日常」をこう呼び分けた。
「ハレ」は「晴れ」であり、祝祭である。
つまり、儀式や祭り、冠婚葬祭だ。
「ケ」は「褻」であり、いつもの日々である。
七五三や成人式などを含む通過儀礼という概念は、まさに「ハレ」そのものだ。
通過儀礼という概念を持つことは、ヒトが人であるための条件であり、人以外の生物はそうした観念を持たない。
さて、ここで問いがある。
あなたは今、「ハレ」の日を大切にしているだろうか。
祝祭に参画しているだろうか。
答えは様々であろう。
客観的事実として、「ハレ」の日への参入度合は年を追うごとに減少している。
昔は村や町、市、都道府県、もしくは国単位で、「祭り」をした。
参画は帰属意識ゆえにであり、また「ハレ」への参画は帰属意識を強める。
その帰属意識とは「タテ」「ヨコ」のどちらにおいても、である。
つまり、同じ「ハレ」を共同体みんなでかんじることで、「先祖や子孫との一体感、共同的な感覚」を獲得し、「地域住民との連帯、一体感」を育むのである。
もう一度問いたい。
こうした意義を持つものとしての「ハレ」の日を大切にしているだろうか。
これはなかなか難しく、厳しい問いである。
しかしながら、「ハレ」を大切にしていないからといって、それが悪いわけではない、全くもって。なぜなら、社会の構造的な力学が、社会をそうした方向に導いているのだ。
その構造こそが、題名にもある「ハレ」と「ケ」の逆転である。
つまり「ハレ」が「ケ」となり、「ケ」が「ハレ」となる。
日常と非日常の転換である。
現代、「ハレ」が増えすぎて、それが普通になっているのだ。いつでもどこでも刺激がある。スマホの中は非日常だらけだ。行こうと思えばいつでも他県や他国、テーマパークにも行ける。「ハレ」は「来るもの(消極的)」ではなく、「行くもの(積極的)」になりつつあるのだ。
その反対の現象が「ケ」にも言える。最近、みなさんは非日常、刺激のない時間を過ごしただろうか。「凪」の時間である。「ケ」が特別なものになっているのだ。地域回帰ムーブメントは、都会に比べて「ケ」の機会が多い地方の特性を求める動きとも読み取れる。
このように現代、「ハレ」と「ケ」が逆転してきている。「ケ」を手に入れるためにお金を払う時代である。
「お笑い」は「ハレ」であった。
非日常を介する笑いの感情の発露であるからだ。
祝祭とは感情を爆発させる儀式である。ブラジルのカーニバルはそのわかりやすい例だ。
今、「お笑い」は過多状態にある。
全くもって特別なものではなくなり、日常に浸透しているのだ。
テレビだけではない様々なメディアで「お笑い」に触れることができる。なんならば、日本のお笑いの構造が、僕たちの普段の生活にも適用されていたりもする。
さて、そうした状況のなかでどのように興行を成立させるのか。
「ケ」としてなのか、「ハレ」としてなのか。
これは二者択一ではない。マーケットや演者に合わせて変えていくものである。
そして僕は吉本興業の社員ではないので、こうしたことを考える立場ではないことに今気づいた。悔しい。
どうせなら最後に興行の方向性を示したい。
①「特大のハレ」興行
「ハレ」が日常化しているのであれば、その中でも特段に目立つような「ハレ」の興行を行うことで存在感を発揮できるだろう。
M-1などは、まさしくその例である。
②「新しいハレ」興行
「ハレ」を大きくするのではなく、違った「ハレ」の形を創造するのである。新しい「お笑い」の祝祭の形。これはまだ形にはされていないがきっと存在するはずであり、今後僕が考えていきたい領域である。個人的に、霜降り明星の粗品さんは、「新しいハレ」を作っていると感じている。
③「ケを全面に押し出す」興行
もはや「ハレ」を捨てて、「ケ」を押し出す。
しかし、やはり「芸人」としては、これは好きではないので割愛。
というような三つの方向性があると考える。
みなさんも日本人として「ハレ」と「ケ」を意識して日々を生きると新たなものが見えてくるかもしれない。