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コーヒーメーカーのジレンマ

先日、ゴールデンルールズのありまさんの個展、「夏目軟石」に訪問させていただいた。

その際に一枚の絵に心を惹かれたので、
その絵を僕なりに解釈していきたい。


この絵である。

なにやらおじさんが、とてつもなく大きなコーヒーメーカーに豆を入れて、カップルらしき男女にコーヒーを淹れている。

まずもって絵を解釈していく上での分析の枠組みは3つある。

  1. material

  2. hue

  3. context

これらの要素に分割しながら、絵を紐解いていくが、この3つのエレメントは決してセパレートではなくインタラクティブな関係である。
ゆえに最終的にはこれらの解釈を横断的に咀嚼し、統合的な解釈を述べたい。

絵の解釈という行為の前提

今回、アートの解釈を進める上で、僕と読者の間で共通の前提を有しておきたい。本解釈においては、アートをアートたらしめている性質の理解が必要である。
その性質こそが、アートのレゾンデートル(存在意義)であるが、それは言説空間内の表現と照らし合わせることで、より克明に浮かび上がる。

「言葉」の性質

言葉とは、基本的にカテゴライズの性質を有する。つまり、思考を切り分けて整理する機能である。
わかりやすい例で言えば、色に関する言葉を持たない(色に関するカテゴライズが少ない)民族にとって、虹は七色には見えていない。色の分類の認識が少ないからだ。二色に見えている民族もいるらしい。
逆も然り。色に関する言葉を多く持つ民族にとっては、虹は七色にとどまらない。

言葉は世界の認識を作るのだ。(ソシュールさんの言語論的を参照)

面白い例がある。
「肩が凝る」のは日本人だけだ。なぜか。
「肩が凝る」という言葉があるからである。「肩が凝る」という言葉は、「肩が凝る」という現象を認識させる。世界から「肩凝り」を切り分けてカテゴライズしているのである。
英語には「肩が凝る」という表現はない。だから、英語圏の人々は「肩が凝らない」、いや「肩が凝れない」のである。

「言葉」と「無限」の関係性

閑話休題。
このように、言葉はカテゴライズの性質を持つが、これは「無限」と相性が悪い。
というのも、そもそも世界は無限である。ミクロな方向にもマクロな方向にも広がり続けることができる。アキレスは亀に追いつかないのである。

ホモサピエンスは、二足歩行により、火と言語を手に入れた。ラスコー壁画の時代を越えたのである。なぜ進化において言語を手に入れたのか。不安だったからだ。

知能も持つと世界の解像度が上がる。なぜならそもそも世界は無限なのだから、解像度を上げようと思えば上げまくれるのだ。だから、言葉をつけて分類しなければ頭のメモリはパンパンになる。言葉にできないわからないことは大きなストレスなのだ。(例えば、妖怪は、説明できない夜の暗闇の漠然とした怖さを表現する(=象徴する)ために生み出された。説明できる対象にすることで恐怖やストレスは軽減できる。悩みを書き出すとスッキリするのも同様の理屈)

だからこそ、言葉は世界を陳腐にしてしまう危険性も孕む。無限を受容するからこそ美しいものが、言葉で切り刻むことでただの塊と化してしまうことが多々ある。

例えば、積丹の温泉から西海岸に沈む夕陽を見ているとしよう。その夕陽の美しさは、いくらで言葉で説明しようとしても、しきれない、取り逃がしてしまう。言葉の限界である。無限の世界の美しさを受け取るには、言語が足枷になってしまう。

さらに言えば、言葉を持ちすぎることで、世界の認識が逆に狭まっているとも言える。言葉は世界の認識を作るが、世界はそもそも存在している。
認識と存在は違う。言葉を持たぬ赤ちゃんと、言葉を持つ僕では世界の見え方は違うのだ。だから、赤ちゃんの認識している世界がとても気になる。それはそれは、言語に汚されていないという意味で無垢な世界なのだろう。

これまた話が飛ぶが、言語の限界を言語だけで突破しようとするのが、詩や俳句である。
制約を設けたり、逆に自由になることで、言の葉に広がりを持たせるのだ。(今回のテーマにはあまり関係ないけど)

解釈の前提

このような言葉の限界を克服し、世界を眺望し、表現できるのが、無限の世界に飛び込むアートなのである。
アートは、非言説的に世界を描写する。「在る」ものを表現するのだ。これは言葉ではできない。
「無限」に真摯に対峙するのがアートだ。だから、アートは優しい。「無限の受容」。
アートには排他性はない。グラデーションだ。

だから、今回の解釈は、あくまで言語で切り取れる部分を説明するに過ぎない。アートはもっと自由で言語を超えている。その点を踏まえて、僕も解釈を進めていくことに留意されたい。

1. material

materialとは、材料、材質のことである、
アートは表現されている具体的なものだけではなく、何で作られているのかにも注目が必要である。

今回の作品だと、紙に黄土色の絵の具を塗りたくり、その上から黒いペンで、コーヒーメーカーの絵などを書いている。

ここで大事なのは、背景は「絵の具」、絵は「ペン」であることだ。

絵の具は、「面」で描くので、無限を表現するのに適性がある。
一方で、ペンは「線」で描くので、有限性を表現しやすい。

ゆえにコーヒーメーカーという非常に身近なマシンの存在感をペンという無限な世界を切り分ける道具によって表現し、その重々しい存在感をアピールしている。

その背景が絵の具により無限的に描かれているのも、コーヒーメーカーの異物感を助長させている。
まるで広大で無限の砂漠に広がる、幾何学的なピラミッドの異様さを思い出させる構図になっているのである。

2. hue

色彩である。
色は、世界そのものである。世界は色の集合体とも言える。人間の認知にも大きな影響を及ぼす。
(赤からは熱意を感じたり、緑には落ち着きを感じたりなど。)

今回の絵のhueは興味深い。
背景のみに色が付けられており、コーヒーメーカー自体には、何の色彩も与えられていない。
無色である。

ここに、ありちゃんさんの色彩のコペルニクス的転回がある。
「無色」という色彩の創造である。

「色」は先ほども述べたとおり、人間の認知に非言語的な感覚を強制的に与える。これは逃れられない。逃れる術がない。なぜなら、人間の根幹の部分と色彩は強く結びついているからだ。

しかし、「無色」とは、何も与えない。英語的に言えば、「何もないものを与える」のだ。

つまり、ありちゃんさんは、このコーヒーメーカーの世界を伝える上で、色彩による先入観を与えないという選択をしている。
いうなれば「零」のコーヒーメーカーである。

ただ、「コーヒーメーカーがそこに存在してる」という事実のみを、僕たちに与えていると解釈できよう。

3. context

アートを受け取る上で、「文脈」の存在は非常に重要である。
ここでいう文脈は、絵の中の物語ことではない。それはcontextではなく、storyである。

この絵が世界の中にどう位置付けられているか、ということである。

この現代に、北海道札幌市に住む、芸人のゴールデンルールズのありちゃんさんが書いているというcontextである。

これは、この後のstoryの解釈の中で、詳しく述べるとして、ここでは上記の事実をおさえてくれれば良い。

Storyの解釈

さて、ここまで、三つの要素から絵を読み取ってきたが、最後にこれらを総合的に踏まえ、絵が伝える「story」について深掘っていく。

まずは、絵の描写を具体的に言葉で説明していく。
コーヒーメーカはおよそ5層構造となっており、上から順に
1層目はコーヒー挿入口、
2層目は、なにやら目盛りがついた計量器的なもの、
3層目は、穴の開いたツボ状のナニカと、監視カメラ的なナニカがついたメーター
4層目は、いびつな形の筒がラッパのように飛び出ているナニカと、ポンプ状のナニカ、
5層目が、様々な周波を測ったり、調整する(?)メカを経由して、仰々しい先端からコーヒーをドリップしている
装置となっている。

この高層のコーヒーメーカーに豆を入れるため、スキンヘッドで髭を生やした力強い腕を持った店主が、はしごをかけて、登っている。

コーヒーのドリップを待つ男女は、空虚な瞳で腕をぶらりと垂れた間の抜けた姿勢で立ち尽くしている。

違和感

さて、この絵に抱く違和感は何か。

  1. コーヒーメーカーが巨大すぎる

  2. 登場人物の顔が虚無過ぎる

  3. 豆を入れてるのと同時に、コーヒーがドリップされている

これらの違和感を紐解いていくことで、この絵のstoryを探っていく。

巨大なコーヒーメーカー

5層にも分かれて、複雑な構造になっている巨大なコーヒーメーカー。
コーヒーを入れるのに、これほど壮大なメカニズムが必要なのか。
監視カメラはいるのか。

否。

いらない。
なぜ、ここまで大きくなってしまったのか。ここまで大きなコーヒーメーカーは市販されていない、ということは、おそらくこのコーヒーを入れている主人が造ったのだろう。

最初は、「美味しいコーヒーを入れるためのメカニズムを勉強したい!」という細やかではあるが本質的な願いを持ちながら、作り始めたのだろう。
しかし、コーヒーメーカーを作り続けているうちに、あれもこれもと機能を足していって、最終的には、コーヒーを作るのには、きわめて時間も手間もかかる機械が出来上がったのだろうと空想できる。

虚無顔

ここの登場人物はみんな、目が点のままボケっとした表情をしている。いわゆる虚無顔である。感情が欠落している、というか、記号的な存在と化している。

豆を入れて、同時に、ドリップされる

コーヒーを淹れたことがあってもなくても、コーヒーは豆を入れた後、ゆっくり時間をかけてドリップされることは知っているだろう。つまり、同時にそれらが行われることはない。
ということは、もはや本来的な目的を失って、「豆を入れる」ことが目的になってしまっていることを示している。だから、豆を入れるタイミングがあり得ないことになっているのだ。

見失われた本質

以上の三点の違和感からわかるのは、絵に登場するものたちにとって、「コーヒーを淹れて飲むこと」が作業になっているということだ。ベルトコンベアのように淡々と流れていくだけ、意味を失った行為、形骸である。

みな、最初は美味しいコーヒーを飲むために動いてたはずである。しかし、現在は、虚無な顔と姿勢で、不必要なほど大きなコーヒーメーカーを使いながら、豆を入れるタイミングなども作業的になっている。

なぜ、コーヒーメーカーがペンで、無色に描かれているのか。
それは、形骸だからなのだ。
この絵のコーヒーメーカが、本質的な意味、つまり、「美味しいコーヒーを淹れようという目的」からかけ離れた、ただの鉄塊になってしまっていることを表現したかったのではなかろうか。

「芸人が描く」という意味

ここで、contextからもさらにこの絵を解釈していきたい。
先述した通り、この絵の作者であるゴールデンルールズのありちゃんさんは芸人である。

芸人も、このいわゆる「コーヒーメーカーのジレンマ」に陥ることが多々あるような気がする。

「コーヒーメーカーのジレンマ」とは、この絵から生み出されたアフォリズムで、当初の本質的な目的を失い、作業の目的化、形骸化が生じてしまうことである。作業することを目的としてしまっている状態である。)

最初は、「人を笑わせる」という目的をもってネタを創るが、ネタを修正したり、変えていくうちに、「笑い」とは関係ない、「技巧の部分」や「賞レースで勝つため」のネタ作りに変わっていってしまう。そんなことが多々ある。

本質を見失わないように生きていくことは難しい。
「作業をすることが目的となっていませんか?」
この疑問を僕たちに、そして、ありちゃんさん自身に問いかけるのがこの絵なのである。

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