医学の不確実性とコロナパンデミック
「医学の不確実性」という概念は,高橋晄正氏あたりが最初に著書でとりあげ,中川米造氏もさまざまな論じていました.医療崩壊の危機がせまった2007年ごろには,小松秀樹氏が「医療の限界」を著して,「リスクのない治療はない」と結論づけて,すべてを医療側の責任とする社会とメディアに警鐘をならしたことは記憶にあたらしいでしょう.
「医学の不確実性」というのはなにも医療側の責任逃れではなく,医学のなかに構造的に組みこまれているものです.医学は純粋科学ではなく人間を相手とする営みであり,不確実性がどうしても不可避です.とくに「診断の不確実性 (diagnostic uncertainty)」については近年さまざまに議論され,それを数学的に表現したのが検査の感度や特異度,的中率といった概念です.
しかし実は「医学の不確実性」というジレンマを解決するには,究極的には他者と議論し、チームとして患者の不確実性を認識して対応すること,そしてインフォームドコンセントがなによりも大切です.インフォームドコンセントといわれればあたりまえのように聞こえますが,これはいいかえれば「リスク」を患者さん側と医療側で分けあうということにほかなりません.
医学に不確実性をともなうのは,因果関係が決定論ではなく確率的に決まるからです.その不確実性に患者のみならず,ときとして医者自身が耐えられなくなり,過剰な検査をおこなったり,専門家をたらい回しにしたりと,患者さん自身になんのメリットもない安易な手段をとりがちです.これらは厳に慎むべきことです.
パンデミックの最中,入院患者はおろか面会者まで徹底してPCRを繰り返して,陰性のもののみ入院や面会を厳密に許可していたにもかかわらず,院内でのCOVID-19の発生を抑えることができない.一方,当院などは入院や面会での検査はせずに,通常の感染対策のみでもそれなりにコントロールされています.結局,この問題は検査がすべてではなく,やれば検査はやればやるほどいいわけでもないのです.
これも診断の不確実性のひとつです.これまでの膨大な医学的データが蓄積されているはずなのに,医学の不確実性はますます増えているような気がします.しかしもし仮に絶対的に正しい答が存在するとすれば,それと同時に絶対的にまちがっていることも存在することを意味するわけですが,万が一それを選択した者がいればその責任が問われることになります.
しかし絶対的に正しい答えがないように,絶対的に誤っている答えもおそらくめったに存在しません.だから医学の不確実性とは盾の両面です.すべては確率によって決まります.たいせつなのはそれをしっかり認識し,患者との関係性のなかで実際の診療を進めていくことになるでしょう.
「不確実性」についてオランダの社会心理学者ホフステードが,「多文化世界」という本で興味深い指摘をしています.その社会のひとがどの程度あいまいな状況や未知なことに脅威を感じ,それを避けようとする傾向を「不確実性の回避」と定義し,日本は世界でも有数の不確実性をきらう文化の国と指摘しました.
「不確実性の回避」が強い文化は,未知のことへの不安度が高く,そのため規則が厳しく攻撃性が高く,肯定的ないし否定的感情の表出が極端という特徴があるそうです.また自殺率が高く,アルコールの摂取量が高くなると指摘しています.今回のひとびとのパンデミックへの反応について考えさせられます.
未知なものへの感情的対応はとくに日本的でした.たとえばアンケートで新型コロナにかかるのは自業自得であると答えたひとが11~17%と,ほかの国にくらべて断トツ高かったことなど.パンデミック当初に東京から地方に帰省したひとが近所から帰れと言われた話など(原発事故直後と反対の状況ですね).
医療の世界の最大の特徴は不確実性ですが,一方では日本では「不確実性の回避」の傾向が強くあります.だからいりょうについても100%の説明と安心,そしてゼロリスクを求めようとします.検査は100%であるとか,診断がちがったり治療結果がわるいのは医療ミスにちがいないといった発想になりがちです.
医学の本質は不確実性であり100%はということを,発信する医師,伝えるメディア,受けとるひとびとが共有し,そのうえでリスクをそれぞれどう分担するかを話しあう必要があります.ゼロリスクはありません.結果が悪ければとにかくあいての責任として非難しあっても,なんら益するところはないでしょう.