大田垣蓮月のこと
「人の優しさというものは,どこから湧き出てくるのか.幕末に生きたこの女性を想うとき,そのことを考えずにはいられない」.磯田道史は「大田垣蓮月」をそのように書きだした.蓮月は幸せな生まれではない.父は貴種.芸妓に産ませた庶子で,寺侍•大田垣光古の養女になった.ていのいいやっかい払いである.
のぶ(誠)と名づけられたこの娘は,成長するにつれ容姿の麗しさがひとをひきつけるだけでなく,学問を好み書や和歌などにずばぬけた才を示した.光古は実子の千之助にいずれ娶わせようと考えていたが,病没したため婿養子を迎えて結婚すること2回.しかしいずれも夫が早く死に,あわせて5人のこどもらも夭折した.
子を喪ったのぶの嘆きは,若いときの和歌はすべて失われてたしかめるすべはない.寡婦となったのぶは仏門に入り蓮月と号した.大田垣蓮月である.亡くなった夫や子ら,実父母,養父母を弔いながら,日々のたつきのために見よう見まねで陶芸をはじめた.急須や茶碗をつくり,自作の和歌を釘彫りでいれた.
最初こそまったくあいてにされなかったが,次第に高く評価されるようになって,求めるものが引きも切らないようになった.そうなるとこんどは専門の贋作屋が5, 6軒できたという.それを聞いた蓮月の反応がおもしろい.「わたしのようなものの埴細工で食べられるものができたというのはええことですわ」.
贋作屋のためにあらたな和歌をつくっては釘彫りでそれを書きつけてあげたという.蓮月は40代からの40年間に膨大な数の焼きものをつくったが,それでも世にでている蓮月焼きの9割以上は贋作とされている.そこで得た銭は戦災や大火のたびに惜しみなく使い,さらには私財を使って橋をかけたりしたという.
そんな蓮月が年老いてから,事情があってひとりの少年をかたわらにおき侍童として使った.この子は蓮月から歌や書,教養といったあらゆる芸術的感性を吸収することになった.のちの富岡鉄斎である.幕末から明治にかけて活躍し,文人画の最高峰とされ,あれほどの文人はもうでないだろうといわれている.
以上のエピソードは磯田道史「無私の日本人」によった.わたしが2020年に清荒神の鉄斎美術館にいったとき,たまたま開かれていた企画展が「蓮月と鉄斎」だった.蓮月の書簡と当時秀逸とされた和歌の短冊,そして多くの蓮月焼の作品が展示されていた.大田垣蓮月の名をはじめて知ったのはそのときである.
この本には江戸期の3人の日本人がとりあげられているが,その哲学と利他心,名利を一切求めない姿勢が感動的である.穀田屋十三郎,中根東里,そして蓮月である.穀田屋十三郎は仙台北隣の吉岡のひと.映画「殿,利息でござる!」の原作実話として知るひとも多いので,今回は大田垣蓮月を紹介した.