現代医学は文化的に構成された単なる仮想か?

ポストモダニストは,普遍的真実としての科学やそのエビデンスを否定します.実験や反証といったプロセスをとおして客観的事実を知り得ることを否定し,「事実」なるものはすべてなんらかの価値判断によって捏造されたもの,すなわち文化的構築物と考えます.科学もほかの多くの文化的アプローチのひとつであり,客観性や真実性においてとくに優位性はないとします.

ポストモダニズムの懐疑主義はある種のシニシズムをともなっていて,医学の進歩などは見せかけにすぎず,またエビデンスにもとづいた医学(EBM)なども専門家集団の利益や価値によって恣意的につくられたものとして否定します.一方,エビデンスにもとづく現代医学は,ある命題が事実か確認する方法を徹底して検証し,多くの反証をくぐり抜けたものをとりあえずの事実として容認します.ポストモダニズムの思想とはまったく異なる方法的懐疑主義です.

ポストモダニズムが,いつも現代医学を代替医療や民間医療といったキッチュなものとわざと同列にならべて論ずるのは,医学が事実を正当化する単なるひとつの言語ゲームにすぎないとみなしているからです.しかし医学というものが,生産的で実践可能な形の懐疑をあらゆるものに適応する自己修正的プロセスであることを完全に理解し損なっているのです.

以上教科書的にまとめてみましたが,医師の立場にもどってあらためて考えると,仮にすべての信念や合意は相対的であり事実は権力により決まるとみなしたとしても,ひとの「命」を相対化することだけは絶対不可能ではないでしょうか.これは一種の実存的なみかたですが,死だけは厳然としてわれわれの前に立ちはだかり,ポストモダンの浅薄な懐疑主義などかんたんにはねのけてしまいます.

統計学を成立させたのはたしかに西欧的な自然科学ですが,計算される「生」の長さはある種絶対的なものです.ある治療法があって,それが患者の生存期間を有意に延長し,あるいは生命の質を有意に改善するとき,しかしそれは文化的に構成された単なる仮想にすぎず意味はない,などと結論するひとがいればあきらかにナンセンスでしょう.

アラン・ソーカルなどは,「もし物理法則は単なる社会的因習に過ぎないと信じているのなら,高層ビルの二一階の窓から飛び降りてみたらどうか」と社会構築主義を皮肉っていますが,現代医学についてもまさにそのとおりだと思うのですが.

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