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松本市の「康花美術館」

松本市内に康花美術館という小さな美術館があります。とてもすてきなところで、今回再訪を楽しみにしておりました。須藤康花さんは幼いころから絵の天分を発揮し、多くの美術賞をとって将来を嘱望されながら、生まれつきの難病のため30歳で夭逝された画家です。

亡くなったあと膨大な油絵や銅版画の作品,そして手記や日記などがでてきて、東京などで回顧展がなされました。そのあとお父さんが作品すべてをひきとって、自宅を改造した個人美術館で常設展示をしています。わたしは2019年に学会で松本にきたときに、道を歩いていてたまたまみかけたその美術館にたちよったのが,須藤康花さんを知ったきっかけでした。

世に出る前に亡くなったのでほとんど無名ですが、これは身びいきで展示されているのではけっしてなく、絵そのものに圧倒的な希求力のあるすばらしいものです。ポストカードをなんまいか写真にとってのせましたが、現物はかなりおおきいものなので、実際にみないとその魅力がなかなか伝わりづらいかもしれません。

絵は具象でありながら、その意味するものはやや難解です。しかし意味をこえて表現そのものによってこちらに強く訴えかけるのを感じます。ブリューゲルやボッシュのような寓話性を意図しているのかもしれません。晩年、といっても二十代後半は銅版画製作にこって、ますますこういった表現主義的な作品制作にのめりこんでいたとのことでした.

康花さんは13歳のとき母親を亡くしました。今回の展示はみずからをモチーフにした、いわゆる自画像をおおく展示しています。13歳以前の家族で幸せな時代の作品を最初の部屋にならべ、その後は康花さんのつらい孤独のなかでの作品をおくことによって、その残酷なまでの比較となっています。写真の自画像はその幸せだったときに描かれたものです。

美術館にいくとお父さんがでてきて対応してくれます。その須藤正親さんは、康花さんの死後にでてきた作品をみて、膨大な文章を読み解くなかで、康花さんがなにを思いなにを考えていたのか、そして孤独と絶望のなかでも死を選ぶことをせずに描きつづけた人生の意味を考えつづけながら,それを本にしていらっしゃいます。

写真は2冊目のもので、3冊目もすでに出版され、いまは4冊目を書かれているところだそうです。前回はこれは一種のグリーフワークかと思っていたのですが、すでにそういったところは突きぬけてしまい、康花さんの生と死の意味を考えつづけることにより、それに反射する自分自身の生を解きほぐす実存的な作業をつづけているのでしょう。

今回の学会場からは歩いて20分くらいの距離です。今日の午前中はははげしい雨だったのでタクシーをひろいましたが、運転手は30年松本で仕事をしていてはじめて聞いたといいながら、ナビをたよりに連れていってくれました。これだけのすばらしい芸術の存在を松本市民は知らない。なんとも惜しいことですね。

なお「須藤康花展」が松本市美術館で今年12月から来年3月まで開催されることになったそうです。父親の須藤正親氏がうれしそうに語ってくれました。なお写真の引用も承諾済みです.

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