「ハルステッド手術」と「リトドリン長期持続投与」
近藤誠氏は,2022年8月13日に出勤途中で体調不良を訴え,搬送先の東京都渋谷区の病院で亡くなりました.73歳でした.生前は多くの医学的論争をひきおこし,毀誉褒貶も多かったかたでしたが,わたしはおおいに評価されるべきだと考えています.
最近事情があって,近藤誠編著「がんと闘うな論争集」(1997)を再読しました.新型コロナにたいする反ワクチンなど,最晩年こそ言っていることの大半がトンデモになってしまった近藤誠氏ですが,このころは今日の眼からみてなかなか首肯することが多かったですね.なかでも冒頭の対談がばつぐんにおもしろい.
X線二重造影法の開発者で,国立がんセンター総長をながらく務めた市川平三郎氏は,当時の癌治療の最高権威とされたひとです.近藤氏はその市川氏とまさに白熱した議論をくりひろげています.この対談で近藤氏が提起した問題は,乳癌のハルステッド手術,乳癌検診,胃癌手術のD2郭清術,胃癌検診などの有効性にたいする疑問です.
当時の欧米でおこなわれたRCTの報告をいろいろ紹介して,いずれの有効性について否定的な主張をしました.それにたいして市川氏は,「患者個人と統計成績は別」「日本人は手術が上手(だから欧米のデータはまったくあてにならない)」「データをつくるために人を殺す気にはならない(人体実験すべきでない)」といったいいかたで反論していました.
この対談は1997年.ちょうど日本にエビデンスやEBMの概念が本格的に導入されはじめた時期にあたります.近藤氏はRCTのことを「くじ引き試験」という言いかたをしています.市川氏は,いわゆる「エビデンス」の概念を完全否定していました.ハルステッド手術など上記の論点について今日ではどのような結論となっているでしょうか?
乳癌のハルステッド手術はいまはほとんど絶滅しました.乳癌検診は,40歳以上を対象のマンモグラフィ検診には有効性ありとするのがコンセンサスでしょうか.胃癌のD2郭清は欧米でまったくなされていませんし,国内でもめずらしいでしょう. くわしいかたがいらっしゃれば教えていただければと思います.胃癌検診は国内ではX線検診も内視鏡検診も一応エビデンスありとされています.
1997年の時点ではげしい対立をみせていた上記の諸問題も,その後のRCTの施行やメタアナリシスの検討により,それなりのコンセンサスができあがってきています.専門家の意見ではなく,きちんとしたエビデンスにもとづいた議論が重要とあきらかにしたことにこのはげしい議論の意義があったと思います.
しかし実際にハルステッド手術が廃止されたのは,世界で日本が最後であったのも事実です.外科医の抵抗ははげしく,その是非について議論するというよりは,「批判するいいかたが悪い」とか,「他人を否定するな」,「日本人は手術がうまい」「欧米のエビデンスは日本に通用しない」といった見当はずれの主張が多くなされたの反省すべきだろうと思います.
ハルステッド手術は乳腺や皮膚とともに大胸筋までとる手術であり,術後の見た目は肋骨が浮きでて,もちろん乳房再建などできず,女性であることを捨てなければならないと言われました.重い身体的代償を払ったにもかかわらず,実は手術の有効性はなにもなかったことがのちにあきらかになりました.自ら望んだひとも多かったが,無理やり受けさせられたひと,選択の自由があることすら知らないひとも多かった時代でした.
エビデンスにもとづいて乳房温存術にかわったことは,医学の進歩として歓迎すべきことでしょう.しかしそれまでの根治的乳房切除術によって,多くの女性が永久に外見を損ねられたこと,死ぬまでその責め苦に耐えなければならなかったことにたいする,医師の反省や謝罪の声は寡聞にして聞いたことがありません.
医学のなかだけでの論争ならばそれもいいでしょう.しかし犠牲になるのはいつも患者さんです.もしRCTとそのシステマティックレビューで,ある治療法が無効とわかったのならば,その分野の学会の動向や権威者のメンツなどは棚上げにして,患者さんのためになることだけを考えて,あらためるべきところはなるべくはやくあらためるべきだと思います.
わたしがいいたいのは「切迫早産にたいするリトドリン長期持続投与」についてです.上記の文章の「癌」を「切迫早産」に,「ハルステッド手術」を「リトドリン長期持続投与」におきかえて読み直していただければ幸いです.