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群れ研ラジオ「宗教の起源とスラムの今後」

なんと、群れ研解散宣言が出されました。今年いっぱいで群れ研の活動は終了するそうです。びっくりですね。

今日のラジオは、「宗教の起源」を読んだ群れ研究員たちを中心に、スラムの宗教化、拡大の方向性、その可能性について考える内容でした。


伊予柑さんの「今後のスラムどうする会議」

すべてのはじまり

11/5(日)に上記のZOOM会議が行われ、スラムの改革方針について議論がなされました。その内容はどれくらい公開していいか分からないのでここではあまり深くは紹介しません。

ただ、ここでの方針としてスラムの規模拡大が掲げられました。「健康・ともだち・風水」の力で人々が健康になれる大きなコミュニティを作りたい。そのために宗教性が必要なのではないか、という議論がありました。

そこで、宗教について調べるためにも、現在群れ研究所で読んでいる「宗教の起源」の知識が役立つのではないかと思われます。

宗教は人を集めるものではなく、集まった人を束ねるもの

ラジオでも「宗教ってどうして誕生したのですか」という質問がありました。本によると、人間って社会的な動物って言いますけど、やっぱり150人くらいが最適な群れなんです。人間の脳みその容量的にもそれが限界なんです。150人を越えると基本的には殺し合いです。ケンカや対立が起こって群れは分裂します。200~300人の群れは非常に不安定で、結局は50~100人の安定な群れに分かれるというのが歴史です。

でも、農作などによって食料が安定供給されて人が増えすぎてしまった。本当は分裂したいのに、一か所にいざるをえない。そうやって不安定な社会を保つために、宗教は生まれたようです。通常の群れであれば相互監視して悪いことしないように見張れますが、150人を越えた群れではそれができないので、常にあなたの行動を見ている神様みたいなものを信じることでみんなが倫理的に行動して社会秩序が保たれるのです。

ということで、宗教があれば大勢の人が集まるのではなく、大勢の人が集まってしまったがゆえに宗教が生まれた、というのが歴史の流れです。

宗教が続くには献身的な人が必要

これもラジオの中で議論されていましたが、会社のように信仰ではなくお金のために集まっている組織もたくさんあります。これは行動に対してすぐ見返りの報酬がもらえるので、貢献が明快で分かりやすく、納得感も大きいです。

一方の宗教では、献身的に活動することで自分も救われると信じているわけですが、なかなかどうして毎日大変なことばかりで、すぐに目に見えた成果が返ってくることはありません。それでも身を粉にして活動してくれる人がいるからこそ宗教は続いています。

どうしてそんな信仰心を持ったのかは人それぞれだと思いますが、やはりそれが命を守る、命を救う、なんらかの神秘体験とつながっているのではないかと思います。神への感謝があるからこそ、頑張って活動できるのでしょう。

宣教師フランシスコ・ザビエルとか、わざわざ言葉の通じない外国まできて布教するとか、なんでそこまで頑張るの? って思いますよね。

スラムに神秘体験はあるか?

スラムを宗教化して規模を拡大するには、その核となる神秘体験が必要だと思います。そう思うと、ぷろおごに奢って話を聞いてもらって救われた、という人が一番信者になりやすい気がします。でも残念ながらぷろおごは教祖になりたくないようなので、この線はありません。

スラムに来た人は、世の中で何かしらの生きづらさを感じた中でぷろおごのnoteやYouTubeなどに出会って流れ着いたと思います。でも、その時点ではあまり救われておらず、神秘体験もありません。スラムに入ることで多少の友達ができたり、アルコールアノニマス的な自助効果で健康になる人がいたかもしれません。でも、あまりそこに神秘体験というほどの大きな転換点とか、神との邂逅みたいな衝撃はありません。

一時期流行ったバンジージャンプは、すごく神秘体験を含んでいると思います。あれは臨死体験ですし、バンジーを飛んだ人たちはとても仲良くなったという実例からも、バンジーの結束力は偉大です。バンジーを取り入れれば神秘性は増すと思いますが、しかしバンジーするまでのハードルが高くてなかなか人を増やすには高い障壁のようにも感じます。

タイ古式マッサージとかピラティスの話もありましたが、先生が謎の教祖オーラを放ち、みんなで一緒になって身体を動かし、そして身体が謎にととのうという神秘体験を通して、この先生の教室はすごいぞ、となって宗教感が出てくるとのことでした。やはり神秘体験には「歌・踊り・儀式」が欠かせないようです。

スラムはネット空間なので、歌や踊りでつながりにくいのが痛いですね。

スラムの教祖は伊予柑?

結局のところ、スラムの教祖はぷろおごではなく、伊予柑だろう、というのは多くの人が納得する結論でした。伊予柑が腹をくくって謎のオーラを出してそれっぽい宣託をするのが、一番宗教感でます。伊予柑本人は、神官やりたい、とか言ってますけど、そんなのダメです。自らが祀り上げられる覚悟が足りません。もし本当にスラムを大きくしたいのならね。

最近の木曜ZOOMはYouTube放送になってますが、リアタイ感がないのが致命的だ、という話がありました。配信型vTuberと動画型vTuberの違いみたいなもんで、その場でコメントが読んでもらえる、スパチャ読んでくれるからこそ見に行く、というライブ感、リアルタイムのフィードバックがすごく魅力的であって、同じくらい面白いコンテンツであっても、動画型だと負けてしまうようです。

ラジオで完全教祖マニュアルという本を紹介いただきましたが、それによると「それっぽい教義をドーンと打ち立てたら、あとは暇なインテリが教義を精緻にしてくれる」とのことでした。結局、コミュニティのビジョンとか北極星を作れとか言っても、そんなの誰かがドーンと根拠もなく言い張るだけでいいのです。ドーンをするか、しないか、それだけなんです。

その意味で、群れ研の所長は、教祖の才能があるな、という話になりました。私たち下っ端の群れ研究員はどちらかというと暇なインテリ側なので、与えられた教義をあーだこーだ解釈するのは得意ですが、最初に無意味にどーんと掲げるのはめちゃくちゃ苦手です。逆に所長は、全然実行力もないのに、最初にどーんと掲げるだけ掲げるのがすごく得意で、だからみんなに好かれるんだな、と思いました。

ということで群れ研が解散したら、残った後釜で新しい宗教研とか作ろうか?という話もありましたが、暇なインテリ軍団では教祖になれないので諦めよう、ということになりました。

伊予柑は、インテリ側の人間に見えますが、いろんなことを知識と経験でカバーできるので、教祖にもなれるでしょう。本当はぷろおごのような野生の教祖がやった方がいいんでしょうけどね。そっちを焚きつければ、神官として生きる道も見えてくると思いますよ? どうでしょう?

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