鰯
僕のなかにはたくさんの『ボク』がいて、それらがまるで、たった一つの意識下に集約されているみたいに振る舞って生きている。イワシの群遊みたいなものだ。それぞれのボクは違うことを考えているはずなのに、理性や感情といったものにコントロールされ、その殻を突き破って抜け出すことはない。
僕のなかの、たくさんのボク。今、こうして思考を巡らせている僕も、この身体に宿ったわずか一つの『個』にすぎないのだ。
いつか、聞いたことがある。あれは珍しく上機嫌な親父に連れられ、水族館へ遊びに出掛けた日のことだったろうか。
赤道直下の海を再現したトンネル水槽を抜けた先には巨大なスクリーンが広がり、大型のマンタやマンボウが僕の目の前を悠然と横切っていた。海底に珊瑚やイソギンチャクの群生が小さく揺らぎ、その奥では数え切れないほどの小魚が隊列を組んでいた。
彼らは器用に統率を取りながら、およそ一つの集合体であるかのように、一糸乱れぬ動きで水中を自由に泳ぎ回っていた。その華麗な動きに見惚れていると、近くを通り掛かった学芸員スタッフの一人が僕に声を掛けた。
「ボク、一人?」
その日は祝日とあって、周囲はたくさんの来観客の声で溢れていた。近くに親父の姿がないことを確かめてから首を振ってみせると、彼女は僕の隣に並んで立った。
「たくさんいるでしょ? あれね、マイワシの群れだよ」
「イワシ?」
「そ。イワシ。なんであんなにいっぱいいるか、分かる?」
彼らが極度の寂しがり屋だから、ではないだろう。一向に答えずにいると、彼女は静かに続けた。
「あの一つひとつはね、とっても小さくて弱いお魚さんたちなの。だから、みんなで集まって、大きい生き物のフリをしながら生きているのよ」
もっとよく見てみようと、僕は可能な限りに水槽へ顔を近づけた。鼻息がガラス面を白く濁らせ、ひやりと冷たい感触が頬を撫でる。
「……あっ」僕は思わず声を漏らした。
手前を泳いでいたメジロザメがイワシの群れに突っ込んでいき、その大きな陰の中腹あたりをすり抜けていったのだ。
「──って、水族館職員の私が嘘を言っちゃいけないか」
そう小さく呟くと、彼女はふっと息を吐きながら僕に向き直った。
「希釈効果、っていうの」
「?」
「捕食者、つまりあのお魚さんを食べようとする外敵と出逢ったとき、一人で泳いでいたらすぐに捕まって食べられちゃうかもしれないでしょ。でも群れで行動をしていれば──動きの鈍いおじいちゃん魚や病気の子どもがいれば、それが囮となって、代わりに食べられてくれるかもしれない。自分だけは生き延びられるかもしれない」
「……」
「生存戦略だよ。厳しい自然界ではね、自分勝手な種だけが生き残っていくの。ズルくても、誰かを犠牲にしてでも、自分だけはのうのうと生き抜いていかなくちゃいけない。それがまるで、当たり前であるみたいな顔をして」
言葉を小さく震わせながら、彼女はそっと呟いた。その瞳の奥には、まだ幼い僕にもはっきりと分かるほどの寂しさが満ちていたように思う。
「ごめんね、少し難しかったかな」
明るさを取り戻した声で取り繕うと、彼女はスタッフらしい笑顔を浮かべた。くしゃくしゃと僕の頭を撫でて、「水族館、楽しんでいってね」と残して立ち去った。
あれから十数年が経った。
誰かに食いちぎられそうになるたびに、僕はボクの一人を犠牲にして自分の心を守ってきた。自分勝手でズルい僕を残し、傷ついても気付かないフリでやり過ごしてきた。
僕という集合体を生かすために、たくさんのボクを囮にして──それで良い、と僕は思う。それこそ、生存戦略だ。
立ちはだかる困難に、胸の奥を摘んで握るような苦しい痛みに、いちいち正面から向かい合ってなどいられない。僕は僕の心を守っていかなければならないのである。大きく見せる必要も、強くある必要もない。捕食される側には、捕食される側の生き方があるのだ。
そんなことを考えながら僕は、洗面台に置かれたカミソリをゴミ箱に捨てた。
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