『広島・長崎・沖縄からの永遠平和詩歌集 ―報復の連鎖からカントの「永遠平和」、賢治の「ほんとうの幸福」へ』
コールサック社による「永遠平和」の公募趣旨に賛同した269名の詩人・歌人・俳人が世界に贈る詩歌のアンソロジー。
このアンソロジーの上梓に拍手を贈ると同時に、不幸なことにまだこのような書の企画発行と、文学という言論による批評が、喫緊の課題として継続されなければならない状況である、ということも述べておきたい。
戦争と平和が主題の文学的表現において、特に日本では「被害者目線」の者が多く、「加害者としての日本人」であることを認識の基盤に置くものが少ないのが現実である。
だから、今、その認識をどう含み得るかが、その現代的な表現としての可能性が問われることになるだろう。
例えば、東アジア地域における、「大東亜共栄圏」「八紘一宇」なる妄想的スローガンのもとに行われた侵略と加害行為。これに正面から向き合うことに、多くの日本人ができないでいること。
例えば、現代の戦争はテロ的様相を帯びてきている。
テロに遭い、恐怖を感じた国民はより厳しい監視を求め、過剰ともいえるテロの取り締まりや規制に乗り出す。その例が9・11同時多発テロ後の米国社会である。
その「報復」的行為が世界で常識的に受け入れられる土壌がここに生れた。
その世界的風潮を許して、今日の惨禍を招いていることに、わたしたち日本人は無罪なのか。
これから韻文家が自覚すべき視点は以上のようなことではないか。
もちろん、過去の「被害」の実態は、まだまだ語り尽くせてはいない。
そのことと平行して、以上の視点の詩歌も、もっと詠まれなければならないだろう。
本書がその認識に立てた創作、執筆、企画編集になっているかどうかは、読者次第であり、私見をここで述べるのは控えておく。
いずれにしろ、さまざなことを考える上で、本書は座右の書となるべき書である。
以下にその概要を紹介する。
目次
一章 被爆者の声
二章 広島を語り継ぐ
三章 長崎を語り継ぐ
四章 沖縄を語り継ぐ
五章 空爆・破壊の記憶
六章 アフガニスタン・ウクライナ・ガザ・世界は今
七章 戦争に駆り立てるもの
八章 喪失・鎮魂・反戦
九章 永遠平和
「企画編集者が本書に込めた想い」という企画編集者・鈴木比佐雄の言葉を下記に抜粋する。
広島・長崎・沖縄・世界の戦場の経験から汲み上げられた言葉には、後世の人びとに伝える極限的な知恵が宿っていると考えています。
今回の「永遠平和」をテーマとした当詩歌集は、被爆者や戦禍に遭遇した人びとの声にならない無言の思いや叫び声の代弁、そして核兵器や大量破壊兵器の廃棄を現実的に進める試みを詩人・俳人・歌人たちが言葉を通して表現しようとしました。
本書の英語版は2025年の春頃刊行予定で、併せてお読み下されば幸いです。
世界の人びとに日本人が広島・長崎・沖縄で経験したことや、現在進行中のアフガニスタン・ウクライナ・ガザなど世界の戦争地域に関する詩歌も併せて収録させて頂いたので、その思いをお読み下さればと願っています。
掲載作品の一部を紹介
ちちをかえせ ははをかえせ
としよりをかえせ
こどもをかえせ
わたしをかえせ わたしにつながる
にんげんをかえせ
(峠三吉『原爆詩集』の序より)
少年たちは
鍾乳石のつきでた自然壕から這いでて
もえるような夏の色をさがして
剝き出しの丘をさまよい
灼ける渇きに うたれて死んでいった。
(新川明「慟哭」より)
◆短歌
くろぐろと水満ち水にうち合へる死者満ちてわがとこしへの川(竹山広)
太き骨は先生ならむそのそばに小さきあたまの骨あつまれり(正田篠枝)
白き虚空とどまり白き原子雲そのまぼろしにつづく死の町(近藤芳美)
原爆の子なほ読めと言ふ子らに向き我また泪しつつ読みつぐ(馬場あき子)
人の世の深き悲しみくり返すあけもどろの花咲いわたる島(平山良明)
◆俳句
水をのみ死にゆく少女蝉の声(原民喜)
なにもかもなくした手に四まいの爆死証明(松尾あつゆき)
※ ※
追記
安倍政権を代表する自民党の極右勢力は、「加害者」論を唱えたら、すぐ「自虐史観」と決め付けています。
一部というか、かなりの多数の日本人が、なんとなくその気分を共有しているような風潮があり、とても厭な気分になります。
と、この記事を書いている今日、2024年8月5日、朝日新聞朝刊に、加害者としての歴史を研究しようと提唱されている方の記事が掲載されていました。
これからの日本のために、このような評論、文学の分野が充実することを願って、全文を以下に転載させていただきます。
被爆地ヒロシマで、問い直す加害 女性史家・故加納実紀代の言葉を手がかりに、市民らが研究会
広島に原爆が投下されて79年。1945年末までに14万人の犠牲者が出た「被害」の地で、その「加害性」を問い直す市民らの研究会が立ち上がった。手がかりとするのは、女性史研究家・加納実紀代(1940~2019)が残した「被害と加害の二重性」という言葉だ。
■軍都で戦争支えた人々、二重性をもった「悲惨の象徴」 被害者の立場のみのいびつさ越え、「反戦の象徴」へ
加納は銃後史を主なテーマとした。日本の植民地支配下にあった現在のソウルに生まれ、広島市にいた5歳の時に被爆。その体験を著書「女たちの〈銃後〉」に書いている。
原爆投下後の広島で、炊き出しのおにぎりを受け取りに行く道中、黒こげで首のない死体にどれだけ出くわさずにすむかが日々の遊びとなった。
5個以上見てしまったらペケ、1個も見ずに帰れたら二重マル――。
後に、その頃の自分に〈罪〉の意識を感じ始める。この「死体遊び」は、〈極限の被害における小さな加害者〉として自身を位置づける原体験となった。
後年、女性たちが軍に強制されるだけでなく、自発的にも戦争に協力する姿を戦前・戦中の文献を読み解きながら明らかにしていく。千人針を縫い、出征兵士を一丸となって見送る。女性らはそんな「外」での活動に、家内に閉じ込められていた抑圧からの解放を感じていたという。〈あの戦争において、母たちは被害者であったが加害者でもあった〉
まして、戦時中の広島は軍都だった。軍の拠点がいくつも置かれ、軍人が闊歩(かっぽ)し、アジア諸国へ軍艦が出港した。兵器工場も数多く、軍服の縫製工場や兵士の食料を生産する工場もあった。そこで働き、侵略戦争を支えたのは女たちだった。加納はつづる。
〈「ヒロシマ」は、私たち日本人にとっては、たんなる被害ではなく、被害と加害の二重性をもった民衆のより深い悲惨の象徴としてこそ掲げられるべきであった。そのときはじめて、「ノーモア・ヒロシマ」は、たんに原水禁運動のシンボルであることを越えて反戦の象徴となることができる〉
今年2月、「被害と加害の二重性」をテーマにした「加納実紀代研究会」が発足した。
呼びかけ人の高雄きくえさん(75)は広島で19年間、フェミニズムやジェンダーをテーマにミニコミ誌を発行してきた出版社「家族社」を主宰し、加納と交流を続けてきた。没後には蔵書をもらい受け、昨年3月に「加納実紀代資料室サゴリ」を広島市東区内に開いた。
高雄さんは「彼女の問題提起は、被害者の立場からのみ声を上げていては限界を迎える広島の、現在的な課題なんです」と語る。
6月にあった会には、研究者や市民ら10人が集まった。
広島大大学院修士課程1年の中森柚子さん(22)は最年少の参加者だ。小学6年生の時には、8月6日の平和記念式典で「平和への誓い」を読み上げた。
父方の祖父が被爆したことを学校で作文に書いたのがきっかけだ。だが祖父は体験を語りたがらず、式典のテレビ中継すら嫌がった。一方、母方の曽祖父は特攻で失うはずだった命を永らえたが、復員後は暴力的になり家庭が荒れたと聞いた。
広島で受けてきた平和教育には、取りこぼしてきたものがあると感じていた。「加納の姿勢に触れる中で、鬱屈(うっくつ)していた何かが開けていく予感があります」
テーマの射程は戦時に限らない。自営業の白砂江里子さん(37)は昨年サゴリを初めて訪れた。高雄さんから「日本のフェミニズムは在日コリアン女性を置き去りにしてきた」と聞いて、頭を殴られたような衝撃を受けたという。
幼少期に性被害に遭い、確固としたフェミニストを自任するが、日本人女性とは違った問題に直面する在日コリアンの女性を無視するという加害性を帯びていたことに気づいた。サゴリの本棚に並ぶ加納の蔵書を前に、「もっと勉強しよう」と自分を奮い立たせている。
原爆被害の戦後史を研究する広島市立大の四條(しじょう)知恵准教授は言う。
「広島には軍隊の経験がある人たちが大勢いた。だが、被爆体験集は多くあるにもかかわらず、加害体験集はほとんどみられない。広島はいびつな語られ方をしている。でも、そんな広島だからこそ被害と加害の両方を語れる可能性があると思う」 (興野優平)
※ ※
続けて8月7日の朝刊には二つの「加害」についての記事があった。
今年は朝日新聞はこの視座からの報道に力を入れている。
二本、続けて以下に紹介すする。
※ ※
女の子たちと風船爆弾 作家・アーティスト、小林エリカさん
風船爆弾。旧日本軍が開発した秘密兵器。太平洋側から空に放たれ、偏西風に乗って米国本土に到達、犠牲者を出した。作家の小林エリカさんは最新作で、その工場だった劇場に学徒勤労動員された高等女学校の生徒たちを描いた。「名前が残されない女の子たち」の、大切な日々を書き残したかったからだ。
――小説「女の子たち風船爆弾をつくる」では、1935(昭和10)年から戦後に至る少女たちの日々を、資料と証言に即して描きました。
「私は東京で生まれ育ちました。かつて東京宝塚劇場で女学生たちが風船爆弾をつくっていたと、母から聞いたのがきっかけの一つです。日比谷のあの場所で爆弾がつくられていたことに衝撃を受けました。そして、各地で大勢の女性が関わっていたのにきちんと伝わっていない歴史って一体、何なんだろうと」
――女学生たちは、自分たちが何を作っているのか知らされないまま、冬場は手をタラコのように膨らしながら、懸命に和紙をコンニャクのりで貼り合わせています。実際につくった方にも話を聞いたのですね。
「話を伺ったお一人は、戦後40年たったある日、書店に飾られていた本の写真で風船爆弾を見かけたのを機に、自分がつくっていたものが何だったかを初めて知ったそうです。その後、図書館などに通って風船爆弾について調べ、本にまとめた。『知らされなかったことへの抵抗です』と話していました。小説の完成前に亡くなりましたが、その重みある言葉を受け取った責任があります」
――もし、小林さん自身が当時の女学生だったら?
「めちゃめちゃがんばって、張り切ってつくっていたでしょう。お友達に『しっかりやってよ』と思うくらいに。そんな『役に立ちたい』『誰かを助けたい』という当時の女学生たちの善良な気持ちが、為政者によってすり替えられ、加害に加担してしまった恐ろしさがある」
――あえて「女の子」と表現したのは、なぜですか。
「大きな存在からこぼれてしまう、小さなものたちの声を聞くことに注力したいからです。当時の少女は、家父長制の中、ほとんどの人は学校を出たら結婚・出産しか道がなかった。その前に自分の好きなことができるはずだった時間を、兵器づくりにあてさせられてしまった」
「あの時代に『女の子』だった方が、宝塚のスターについて語る口ぶりを私は聞きました。戦況が悪化し、憧れていた制服を着られなくなった女学生は、灯火管制で光もない中で、スフの国民服に学校のマークを刺繍(ししゅう)していた。生きるか死ぬかの状況でも、刺繍する気持ち。空襲の時に月経が来ないように心配する気持ち。『大文字の歴史』には書かれないけれど、私にとっては尊いと思えるものを、書き留めたかったのです」
■ ■
――これまでも、女性の歩みを描き続けてきました。
「祖母は尋常小学校しか出ていなくて、読み書きがきちんとできませんでした。自分が思ったことを書き残せなかった。そんな書き残されなかった、聞かれもしなかった言葉や声が、たくさん存在しています」
「英霊とされた兵士たちのように名前は刻まれていなくても、その人の人生や存在があったんだ、と知らせたい。書かれないなら私が書く、っていう気持ちがすごく強いです」
――今回の小説では、空襲で亡くなった女学生や宝塚スターは実名ですが、男性は「わたしたちの首相」などと名前なしで表現しています。
「戦争を書こうとすると、男の名前で埋め尽くされてしまう。女の名前しか書かれていない歴史小説があってもいいじゃない、と思いました。戦時も半分、女がいたはずだからです」
――戦争を伝えようとするのは、おじいさまが軍医で、お父さまも学徒動員されていたことも背景にあるのでしょうか。
「1929年生まれの父は、学徒動員されて飛行機をつくっていました。その父が書いた日記には、敗戦の日には『よろめいた』とある。日本の勝利を信じていた軍国少年だったのです。でも、そのことを語らなかった。自分の気持ちさえ否定して口に出せないほど、戦後は傷ついていたのでしょう」
「私はアンネ・フランクを追い続けているのですが、父は日本人で、ナチスドイツの同盟国の人間。アンネを『殺した』側です。どちらも、自分にとって大切な人。答えは出ないし、この気持ちをどうしたらいいかわからないけれど、いったい何があったのか知りたい。なぜ、加害に加担しなくてはならなかったか。もし次にそのような状況が来た時、現在、パレスチナで起きていることも含め、自分が加害に回らずにいるためには、いったい何に気をつければいいのか、どこまでだったら引き返せるのかを知りたい。この小説も、そのために書きました」
――引き返すためには。
「毎日が続いているうちに、何かこう『大きなもの』の中にいたっていうことに、後から気がつく。そういうことは、ものすごく多いと思うのです。大きなものがあったら、弱い立場にあればあるほど、それに協力しなければ生き残れない現実がある。そうならないためには、過去に何があったかを知っていれば、その前に食い止められる」
――この小説は、「わたしたちは、中国と戦争をやっている」「わたしは、宮城前広場で、集まった人たちと一緒にわたしたちの日の丸の旗を振る」といったように、「わたし」と「わたしたち」という言葉を使い分けながら進んでいきます。
「たとえばつい『空襲があった』と主語を省いて書いてしまいがちですが、誰かが何かの意図を持って、誰かに対してやっている。それを一回、捉え直そうという気持ちがありました」
「日本という国に属した存在として、どう責任を持てるかを考えました。個人としての『わたし』と、この歴史を持つこの国を生きる『わたしたち』を行き来する形なら書けるのでは、と思いました。『わたし』が『わたしたち』という大きなものにのみ込まれ、巻き込まれてしまうときの揺れ。読まれた方がそれぞれ、『わたし』『わたしたち』がどんなものであるか考えてくれたら、と思います」
■ ■
――「見えないもの」をテーマに作品を発表されています。
「モニュメントなど目に見えるものがあったとしても、過去や歴史そのものは、どうしても目に見えない。その見えないということを知ること、そう認識することを何度も繰り返すことも、大切だなと思っています」
「東京電力福島第一原発を事故後に訪れた時、構内にコンビニがあったんです。放射線量が高い所は廃虚でがれきだらけというイメージだったこと、自分が生活している『ここ』とは違う場所だと心のどこかで信じたかったことに、気づきました。でも『そこ』と、いま私が生きる『ここ』は地続きだと知り、どうしたら目に見えないものを目に見えないまま理解することができるだろうか、と考えるようになりました。自分の知っているものにあてはめて単純化して理解しようとせずに、見えないまま、複雑なものを複雑なまま理解する。そのためにはディテールを知り、わかったつもりにならないことが必要です」
――風船爆弾の小説は、リサーチに数年かけたのですね。
「生徒が動員された学園に問い合わせて、卒業生への聞き取り調査の資料や、同窓会報などを見せていただきました。風船爆弾についても、陸軍登戸研究所で働いていた方が記録を捨てずに持っており、地元の活動を通じて引き継がれていました」
「そこに、歴史は一人ひとりがつくるものだという希望を感じました。どんなに小さな資料でも、大事だと思ったから誰かが書き残し、誰かが保管してくれた。それを私が受け取り、つないでまとめたような感覚です。だからこそ、資料の一つひとつがどこから来たのか分かるようにして、興味がある人がいたら、さらに先に進めてもらえたらいいなと、本には出典注釈を248件つけました」
――来年で戦後80年です。
「私は戦後80年が来ると信じたいし、戦後100年も200年も来るべきです。どれだけ年をとっても、『戦争するのは人間の性(さが)だから仕方ない』という諦念(ていねん)を身につけたくはないのです。戦争のあり方が進化するように、平和を求める方法も進化する――それを諦めずにいれば、いつかは戦争をやめることもできるかもしれません」
「一人ひとりの力ではどうにもならないし、変わらないのでは、という無力感や絶望感を私も抱きそうになります。でも、そんな時は記録を残していった人を思い出せば、力がわいてくるのです」(聞き手・大野さえ子)
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こばやしエリカ 1978年生まれ。主な作品に小説「最後の挨拶(あいさつ)」、放射能と人間の歴史を描いたマンガ「光の子ども」など。絵画やインスタレーション(空間アート)も発表。
◆キーワード
<風船爆弾> 旧日本軍が開発、「ふ号兵器」と呼ばれた。和紙をコンニャクのりで貼り合わせた直径約10メートルの気球に、爆弾を付けて飛ばす。東京、名古屋、小倉などで、女子挺身(ていしん)隊や学徒動員された学生らによってつくられた。1944年~45年春に、合計約9300発が米国本土を狙って飛ばされ、偏西風に乗って1千発ほどが到達したとされる。オレゴン州では民間人6人が死亡した。
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(被爆国から2024 紛争続く世界へ)加害の歴史も知り、暴力拒む 杉浦圭子さん
身内の被爆体験を伝える広島市の「家族伝承者」として昨冬から、13歳で被爆した父の体験を語っています。父は爆心地から2キロの県立広島商業学校の校庭で被爆しました。やけどを負いながらも、郊外の自宅まで約13キロの道のりを歩いて帰ったといいます。
幼い頃から父の被爆体験は聞いてきました。ただ、若い頃の父は明るい性格の上、病気らしい病気をしたことがなかった。父の被爆はたいしたことがなかったんだろう、と思っていました。
被爆40年の夏、初めて原爆・平和関連の番組を担当しました。NHK広島放送局に「はだしのゲン」の作者の中沢啓治さんとアグネス・チャンさんを迎える番組で、進行役を務めました。でも、台本の内容を伝えるのが精いっぱいで、被爆2世ならではの思いを伝えられませんでした。
父の体験や被爆地の訴えを聞いて育ったはずなのに、自分の原爆観、平和観がなかった。学びが始まったのはそこからです。大勢の被爆者に取材し、番組で被爆者の手記を朗読させていただくうちに、体験がみな違うことに気づき、父の体験を改めて聞いておかねばと思うようになりました。
2011年に平和記念資料館であった企画展を見たとき、父と同じ学校の校庭で被爆して亡くなった同級生の血のついたズボンや帽子が展示されていました。爆風で吹き飛ばされた生徒が横たわる校庭を描いた絵もあり、父も死んでもおかしくない状況だったと初めて知りました。
一昨年の夏、父の話を聞き直し、あの日に歩いた道を私もたどりました。炎天下、道に迷いながら4時間もかかりました。「よく頑張ったね」と13歳の父を抱きしめたい気持ちになりました。
父は戦争や核兵器は絶対によくないと考える一方、現状を容認する核抑止論者です。娘としては歯がゆいですよね。あれだけの体験をしながらなぜ、って。核抑止の考え方が危ういということをメディアももっと伝えていくべきではないでしょうか。
暴力を絶対的に否定するには、暴力を憎しみを持って否定するぐらいの強さがないと、安易に武力に頼りたくなる。それを自覚するためにも、原爆を含めた被害だけでなく、日本の加害の歴史を見つめることが必要です。「自分たちが正義である」という戦争はない、と知らなければいけない。
どこで働いても手元に置いてきた絵があります。30年ほど前、フィリピンから広島に留学していた青年が描いたもので、原爆ドームを鳥かごに見立て、そこに平和の象徴のハトが閉じ込められている。彼は「これがヒロシマの現状です」とだけ言い、それ以上、説明してくれませんでした。私はその意味を考え続けています。ハトを大空に解き放つためにはどうしたらいいか。(聞き手・柳川迅)
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すぎうら・けいこ 元NHKアナウンサー 1958年生まれ、広島市出身。81年にNHKに入局。東京、大阪、広島で勤務経験があり、午後7時のニュースなどを担当。88年の紅白歌合戦では、女性初の総合司会を務めた。
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加害者・日本としての明治期の原点となることの一面を描いた書の、ノンフィクションライターの安田しによる書評が2024年8月17日の朝刊に紹介されている。
その全文を以下に転載させていただく。
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『ハルビン』 キム・フン〈著〉
■安重根の「貧しさと青春と体」追う
ハルビン駅のホームに列車が滑り込む。客車から降りてきたのは初代韓国統監を退任したばかりの伊藤博文だ。儀仗(ぎじょう)兵が出迎え、楽隊の演奏音がホームに響き渡る。騒々しい歓迎の儀式にあって、しかし、群衆に紛れ、ポケットに銃を忍ばせた男の耳には何も届かない。
男は銃口を伊藤に向けた。照準線と伊藤が重なる。銃弾が放たれた。鉄路の脇で“明治の元勲”が斃(たお)れる。その場所は、暗殺者の男にとっての“終着駅”でもあった。
安重根(アンジュングン)――朝鮮独立運動家である。1909年10月26日、当時のロシアが管轄していたハルビン駅で伊藤を暗殺した。韓国では「抗日義士」と称(たた)えられる一方、日本では菅義偉官房長官(当時)が「犯罪者」との認識を示している。国によって評価が異なるのは伊藤も同じで、朝鮮半島の側からすれば、日帝植民地支配を象徴する侵略者の親玉だ。
本書は、そんな二人の人生が、一瞬の交錯を経て、最期に至るまでを描いた歴史小説である。
安は1879年に朝鮮半島黄海道で生まれた。その4年前に、日本は軍艦を漢城(現在のソウル)近くの江華島に接近させ、朝鮮を挑発している。以降、日本は朝鮮半島の植民地支配に向けて動き出す。武力によって国王の実権を奪い、王妃を殺害し、1905年には第2次日韓協約を結ばせて、韓国から外交権を奪い、保護国とした。その際、保護権を行使するため日本政府が初代の統監として任命したのが伊藤だった。
つまり、安の生涯には、日本による朝鮮侵略の歴史が刻印されている。安も義兵として抗日独立運動に参加するが、帝国主義の強固で高い壁を打ち崩すことができない。
彼の胸奥で情念が吹雪(ふぶ)く。「伊藤の存在を抹殺する、これが自分の心の叫びだと安重根は考えた」。安は奔(はし)る。暗殺に向けた旅が始まる。
修羅の時代を駆け抜ける安を描きながら、著者の文体(蓮池薫訳)は、どこか乾いている。淡々と安の足取りを追う。巻末の「作家の言葉」で、著者はこう述べている。
「私は安重根の『大義』よりも、実弾七発と旅費百ルーブルを持ってウラジオストクからハルビンに向かった、彼の貧しさと青春と体について書こうと思った」。そう、本書からは義士でも犯罪者でもない、時代と葛藤し苦悩する生真面目な青年の姿が浮かび上がる。
その「貧しさと青春と体」が刑場の露と消えたのは事件の翌年。同年、日本は韓国を併合、植民地支配という負の歴史が刻まれることになる。 評・安田浩一(ノンフィクションライター)
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『ハルビン』 キム・フン〈著〉 蓮池薫訳 新潮社 2365円
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Kim Hoon 48年、ソウル生まれ。長い記者生活を経て作家に。著書に『刀の詩(孤将)』『黒山』『火葬』など。
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加害国日本としての歴史の原点を知る上で、必読の書となるでろう。
さらに望むことは、伊藤博文の個人史と、この安重根(アンジュングン)の個人史を同時並行で描く小説を、意欲のある人に書いて欲しいと思う。
日本人が忘れている近現代史の過ちの出発的をリアルに浮かび上がらせる書となるだろう。
誰も書く人がいないようだったら、今は時間的に無理だが、将来、わたしが書きたいと思う。
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