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深化し続ける自立した表現世界―九螺ささら歌集『きえもの』考


                        2020年06月21日 記

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1 『神様の住所』『ゆめのほとり鳥』そして『きえもの』へ

先ずこの歌集がどう紹介されているか引用しよう。
      ※   
本を開いて五分で飛び立つ、非日常の世界。
短歌と物語が響き合う小宇宙。
ネクター・ハチミツ・鳩サブレー……。
幾つもの「きえもの」=「たべもの」を切り口に、ありふれた日常の風景の中に非日常への扉を描き出す。
現実と夢、有と無、わかるとわからない、重なり混じり合う境界線を飛躍するその一瞬を、鮮やかに切り取ってゆく。
ドゥマゴ文学賞を受賞した気鋭の歌人による、燦めく言葉の万華鏡。
      ※
『きえもの』は、食べ物に纏わる瞬篇小説と二つの短歌という形式の表現によって、読者を実と虚、虚が実存的実感へ突き抜けた思念世界を描いた文学である。
「きえもの」という言葉が食べ物という意味で使われるのはテレビ業界だが、人間自身が「消えもの」であるという存在性についての哲学的な主題性をこめていることが読み取れる。
 根底に哲学的な存在の不安という主題性がある。
 夢と現実のあわいに揺れる存在の不思議さが全編に満ちている。
 常識的な社会認識、存在認識が疑われ、揺らぎ出す。
第一歌集『神様の住所』と同じ表現方法の復活と深化版である。
かつて私は第一作の『神様の住所』を次のように評した。
    ※
革新的な哲学的短歌である。
その独創性は以下の理由によって担保される。
一つ、九螺ささらという歌人にとって、この表現が短歌でなければならなかった、という必然性があるということ。
一つ、旧来の伝統的な短歌観を脱して、日本短歌的抒情ではない、生きる上での形而上的思念の発生する現場から言葉を立ち上げる、魂のリアリティの表現がされていること。
一つ、これこそが韻文学の本来的なあるべき姿ではないかという形を提示し得ていること。
一つ、それまでになかった内容と形式の表現を創造する上での明確な方法論が自覚されていること。
作者も編集者も慎重に、本書を「歌集」とは呼んではいない。
だが、表現と編集出版という作業を含めて、新たな形式が創出されているという意味で、これは新表現の「歌集」と定義されるべきではないか。
    ※
九螺ささら自身も『神様の住所』の「あとがき」で次のように述べていた。
    ※
わたしには、形而上的世界を愛する「宇宙酔い」の持病もあった。
「宇宙酔い」には哲学が効く。
哲学は、見えないけれどたしかに人類が感じているこの世の不思議を言語化して、人類が感じているこの世の不思議を言語化して、人類脳同士で共有しようとする叡智である。
しかし、不可視不可思議を追い求めると、脳は酔ってしまう。
短歌は、このような過多な理性を受け止めてくれる器にもなりうる。
『神様の住所』は、短歌という器で受け止めた感情と理性を言葉にし直して、新しい世界の見方を探ろうとした試みの軌跡である。
    ※
 九螺ささらのこの言葉を曳いて、私はさらに次のように述べた。
     ※
本書は今までのどんな歌集より、歌集らしく文学的である。
日常性から哲学的思弁への口語韻律的跳躍という世界か。
それは情念世界より理知的でしかも、人が真に生きるという意味で深刻で深淵な世界である。この「思念」の吐露なくしては、生き辛いと真剣に思う人間の、魂の真実がそこにある。
本書の文学的主題はずばり、命、存在とは何かという問いである。
それに、論理的な散文形式ではなく、文学的な心の言葉を与えている。
それこそ、文学の役目ではないか。
    ※
『神様の住所』は九螺ささらが自分の表現方法を創り出し、世界を哲学的な文学で表現することに、喜びを感じているのが読者にも伝わる生き生きとした表現に満ちていた。
それが第二作品集、短歌だけの歌集『ゆめのほとり鳥』を経て、哲学的主題性が深化して、この『きえもの』に至っている。
『ゆめのほとり鳥』について、私はかつて次のように評した。
    ※
「文学的自己表出」は世界や人間という存在の謎には挑むが、解明はしない。
「文学的自己表出」は謎について思い巡らせた自分の思いの「正しさ」を主張したりはしない。
「文学的自己表出」はむしろ新しい謎を発見して、それを文学的、創造的に表現することである。
そういう意味で、九螺ささらの創作行為は文学的である。大方の歌集は作者の一定期間の境涯詠集という傾向がある。
誤解を畏れずに言ってしまうならば、和歌・短歌の永い歴史の中で、九螺ささらは初めて「文学らしい文学である短歌」を創造している歌人だと言ってもいいだろう。

『ゆめのほとり鳥』の「あとがき」の中盤で九螺ささらは次のように述べている。
   ※
短歌は「不思議」と相性がいいと思う。『ゆめのほとり鳥』でわたしは、「不思議」を表現してみた。
   ※
この言葉を引用して、私はさらに次のように評した。
   ※
私が先に述べた、「文学的自己表出」はむしろ新しい謎を発見して、それを文学的、創造的に表現することであるという、文学である条件を満たす言葉ではないか。
これまでの短歌にも「謎」を詠んだものは存在する。だが、「詠まれ方」が違うのだ。既存の短歌の「謎の詠まれ方」は「詠嘆」であった。九螺ささらの「謎の詠み方」は、発見的創造表現である。そのことが決定的に違う。そのことが、短歌の歴史に一つのエポックを為したと私が感じる所以である。
『ゆめのほとり鳥』を読んだ読者は、自分の中に同じような、でもまったく違う、自分だけの鳥を住まわせることになるだろう。謎を謎として感受する豊かな文学世界に感応し、自分なりの「謎」の在処を、自分の心の中に「書き込む」という体験をするだろう。そう、それこそが文学という表現の「伝達」の仕方なのだ。
文学の主題を作者は決して、その作品の中には書いたりしない。主題や主張を書いてしまうのは、エンタメ的娯楽作品である。文学の主題は、ある作品を鑑賞したすべての人の心に、それぞれ違う形で「書き込まれる」ものである。何かの自明的な、合〈目的〉的なメッセージを受け取れる短歌は、文芸的であるが、文学ではない。九螺ささらはなんのメッセージも送らない。何かを伝えようなどとはしていない。ただ「謎」を創造し、表現しているだけである。だが、読者は読後、自分の心に何か「不思議なもの」が書き込まれてしまっていることに気が付くだろう。
それが九螺ささらの生み出し続けている文学短歌である。
   ※
主題性の進化は「命、存在」の根源へ向かう。
当然そこに横たわる「存在の謎」に向き合うことになる。
謎…不思議、と言うだけでは済まない世界に直面する。
そう「存在の不安・ゆらぎ」が主要な主題性となってきている。
『神様の住所』は表現が徹頭徹尾、形而上的だから、表現が軽やかでのびのびとしていて自由だった。
だが、主題性が深化した分、この『きえもの』はその自由の翼を作者から奪い、表現にシリアスさが求められる世界である。文体も比例して重くなるのは避けられない。
その苦闘に作者は見事に耐えた。
題材がより日常的となり、日常は作者の「記憶」という情念の中で熟成したものとして文学的に変容させられてから立ち上げられる。
そこに深々とした存在の不安、ゆらぎが浮上する表現になっている。
九螺ささらは深化したのだ。
これからも深化し続けるだろう。


2 『きえもの』―存在の不安という日常へ

『きえもの』では、食べ物をめぐる七十の物語を、生きて今、在ることの不思議、違和感、不安定感として描き出す。
『神様の住所』と同じ形式の、二首の位相の異なる短歌表現で一篇の瞬篇物語を挟み込んだ表現だ。
存在の不安という哲学的主題性を持った本なのに、読後感は上質の文学世界を味わったような、ある種、酩酊感に包まれるという、とても不思議な作品である。
その冒頭の一章だけを次に紹介する。

☆ 「ネクター」

● 始めの短歌
 神々のfresh(新鮮な)flesh(肉)の喉ごしのタブーのごとくネクターを飲む
● 瞬篇小説。(内容抜粋要約)
タクシードライバーによる人類滅亡にまで話題が及ぶ酷暑の話を、車中、ただ聞く「わたし」。そこへ別れようと思っている恋人らしい男からの来訪の意思を伝える携帯電話。
帰宅するとポストに宅配便の不在連絡票。母からで品名の欄にネクターと。
その言葉を読んで舌の上に濃厚な桃の果汁が蘇り、
     ※
体の全細胞がカラカラに渇いているみたいだ。
魂が、渇いているみたいだ。
マツと別れることができない。この先には何もないのに。
何かが必要な気がする。それが何かわからない。

と表現されている。濃厚なネクターの記憶、体と魂の渇き。そして不毛さを感じ始めた恋人との今と未来への不安、閉塞感の表現だ。
 次の日曜日、母からのネクターの荷物が届く。母はそれを未だに「わたし」の好物だと思いこんでいる。ネクターの缶のプルタブを開ける。
 小学生時代の記憶が蘇る。
 下校時間、人の目の死角になる道で独りになったとき、知らない男に「パンツに針がついているから、取ってあげるよ」と言われて断ったが、男はパンツを下げておしりを舐めるという「痴漢」事件に遭遇した記憶。
それを「痴漢行為」だと認識しているのは今の「私」回想という記憶の言葉だ。
そのときの「少女の私」はその行為の意味すら理解していないはずだ。
それは次の表現でわかる。
    ※
「取れたよ」と男は言う。
「ありがとうございます」
 屈辱という言葉を獲得していなかったわたしは、田舎の町の夏の中でそう言うしかなかった。
    ※
 その後、足が悪いのでバス停まで送って欲しいというその男に、肩まで貸して送っていった記憶。
その回想の言葉が次だ。
    ※
 どこまで媚びていたんだろう、わたしは。
 あの頃は、一生あの町にいるんだと思っていたから。
 あの町から出られるなんて、想像したこともなかったから。
 だから。媚びるしかなかった。
 生きるために。生き延びるために。
    ※
 この言葉が小学生の少女のものではなく、それを回想して言葉にしている今の「私」であることが、読者に理解できる表現になっている。
 一年後、クラスの担任にいい体験の思い出を作文にしようと言われて、「わたし」はこの記憶を、痴漢事件のことに触れず、足の悪い大人をバス停まで送った美談として書き、表彰されるという体験に繋がる。
賞状を渡した母の顔が喜んでいないことを察知した記憶。
「わたし」は「一年前の屈辱を売った」のだと、その記憶を今の「わたし」の言葉にする。
 そして「勉強すること、いい評判をもらうこと、それがわたしの仕事だった」と回想し、
「自己申告の美談」に価値がなく、浅ましいことだと知りつつ、「母に愛され」たくて「せずにはいられなかった」と回想(意味付け)する。
 母から届いたネクターを口にした後、「わたし」はあの男を探そうと思い立つ。
「あそこから、何かが渇いているようで、あそこから、ずっとなにかが足りないみたいで。それが何かを確認したいから、あの男を探さなければ。そんな気がして。」
この表現に、体験というものが常識的に明瞭に意味付けられるものではなく、後になって言葉として回想されるとき、「私」ではなく、「言葉」の要請によって、その「意味化」に迫れる状態になることが表現されている。
そこで何かしらの「答え」を求めようとする心理に追い込まれるが、この世に一つだけの回答が用意されるようなことは、何もないのだ。
作中の「わたし」は答えを求めて行動は起こすことはない。
 関係が続いている恋人との情事の後、恋人がベッドでこう言う。
「この頃毎晩、変な夢見るんだよ。小学生の女の子が、ランドセルを背負ったまま、あおむけの男に馬乗りになっているんだ。なんどもなんども、心臓にアイスピックをぶっ刺してて」
恋人に「わたし」の深層心理が感染している表現だ。
そのことが「わたし」を苛立たせ、断ち切るように「わたし」はこう言う。
「そいつはちゃんと死んだ?」と。
 その後、「わたし」はこう思うのだ。
「屈辱は、何を持って消化されるのだろう。」
「確認しなければならない。たとえばこの世の、悪が滅びて善だけが残るという摂理を。」
 この言葉をこの作中「わたし」は信じる他はないが、この作品の作者は決して信じてなどいないのである。
 そしてこの瞬篇小説は次のフレーズで終わる。
     ※
 何もかも捨てたい気がする。
 何もいらないような気がする。
 喉が渇いてしかたがない。
     ※
● 結びの短歌。

 粉々の桃源郷を飲み込んで雌雄のないアメーバーになる

 以上が第一章のあらましである。
 読者はそれぞれに違う主題性を受け止めるだろう。
 二つの短歌の間に挟まれた瞬篇小説の記述には「ねじれ」がある。
「わたし」は小学生時代の痴漢事件を「屈辱」を受けた心の疵の記憶であり、どうすればその忌まわしい記憶から解放されるのか呻吟しているような表現がある。
 だが「何もかも捨てたい気がする。/何もいらないような気がする。/喉が渇いてしかたがない。」と結び、「屈辱」の記憶からの解放という思いとは位相が違う表現になっている。
 小学生時代の事件と母との関係は、自分が女性であることで生じた軋轢であり、それをまだ自覚していないことから来る、存在感の混乱でもあるだろう。
 大人の女性になった「わたし」は恋人との関係に何か空虚感のようなものを抱えてしまっているように描かれている。
 この二つの女性性が重ね合わされることで、女性であることを原因としつつも、それを超えてしまう自己承認の疎外感、そして存在の不条理感へと読者を誘っている表現である。
 この表現のし方に九螺ささら独自の作家性がある。
 エピソードにある幼少時の痴漢事件の心の疵の話、母との心理的すれ違い、恋することにつきまとう空虚感というそれぞれの話は、それだけで完結し得る「物語」であり、そのように完結した物語から立ち上がる主題性は、それだけのことで終わってしまう。
 九螺ささらが表現しようとしていることは、その三つの通俗小説的主題性ではなく、その三つをコラージュして、二つの短歌で挟み込む表現をすることで、新たに立ち上がる、存在の不安、不条理、ゆらぎ、確からしさの喪失された時代の命の有り様を描いているといえるのではないだろうか。
始めの短歌と結びの短歌を並べて鑑賞しなおしてみよう。

 神々のfresh(新鮮な)flesh(肉)の喉ごしのタブーのごとくネクターを飲む
 粉々の桃源郷を飲み込んで雌雄のないアメーバーになる

 新鮮な肉とは私たちの身体性であり、雌雄を持つ属性の中にある。
何故そのような「在り方」でしか人間は存在し得ないのか、という形而上的、哲学的問いが聞こえないだろうか。
雌雄という属性の、たまたま片方の性という存在であるがゆえに、違和感に満ちたことに遭遇する戸惑いと違和感。
それがこの章の文学的な主題性であるといえるだろう。


3 深化し続ける九螺ささらの表現世界

『神様の住所』より、人間という存在の身体性(特に顕著なのが性的な存在様式としての)についての、疑い、戸惑いから立ち上げるという、さらに困難な表現に挑んでいるのが今回の『きえもの』の世界であるといえるかもしれない。
 他の六十九の作品にも同じ主題性が込められている。
 一つ一つの物語は多様だが、深いところで同じ主題性で貫かれている。
 超現実的、ファンタジックな瞬篇小説も象徴性に富んでいて、一見、難解である。
 それを挟み込む二首の短歌もそう簡単に「意味」性が伝わるというような「普通」の短歌ではない。
 現実を安易に象徴したりしない。
物語が寓意的になってしまうところから、遥かに遠く隔たった文学的な自立性を持つ作品群である。
読者は一章ごとに、その奥に秘められた主題性を自らの読解力で読み取ってゆく楽しみと猶予が与えられる。
 形而上的でありながら、いま自分がこのような在り方でここに生きていることは、いったいどういうことなのか、と真剣に考えたことがある「飢え」「渇いた」魂にはオアシス効果を持つ、希有で不思議な作品である。
 間違いなく九螺ささらは、一作ごとに深化し続けていると言えるだろう。

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