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『柿本多映俳句集成』第54回蛇笏賞受賞

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 『柿本多映俳句集成』(深夜叢書社)(2020年・令和2年)

柿本多映氏の略歴

1928(昭和3年)年2月10日、滋賀県大津市生まれ。92歳。本名は妙子。
実家は寺院の園城寺(三井寺)。京都女子専門学校(現・京都女子大学)卒業。
当初は短歌に携わるが、1951年の結婚を機に作歌から遠ざかる。
1976年、西部大津教室にて句作を開始。
1977年、赤尾兜子の『渦』入会。
1981年に兜子が没してのちは橋閒石、桂信子に師事。
『草苑』『白燕』『犀』同人を経て、現在は無所属。
現代俳句協会名誉会員、日本ペンクラブ会員、日本現代詩歌文学館評議員。

句集
『夢谷』『蝶日』『花石』『白體』『肅祭』『仮生』など。

著書
エッセイ集『時の襞から』『季の時空へ』

受賞歴

1988年 第35回現代俳句協会賞
2014年 第29回詩歌文学館賞

『柿本多映俳句集成』の構成

既刊7句集の初版刊行時の元の本文編成をそのまま踏襲してこの一書に集成。
各句集とも目次、序文、句作品、跋、著者あとがきや寄稿文など、刊行時のページ構成を再現して掲載。
7句集は、『夢谷』『蝶日』『柿本多映句集』『花石』『白體』『肅祭』『仮生』。
加えて上記句集に「拾遺」(1977~2011年)として未収録作品1500句余も載録。
詳細年譜、解題、初句索引を付す。
編集=佐藤文香 関悦史
編集協力=村上鞆彦 神野紗希 堀下 翔 瀬名杏香


帯にある自選7句

天体や桜の瘤に咲くさくら
立春の夢に刃物の林立す
水平に水平に満月の鯨
人の世へ君は尾鰭をひるがへし
末黒野をゆくは忌野清志郎
おくりびとは美男がよろし鳥雲に
誰の忌か岬は冬晴であつた

オビ(裏)編集者からのメッセージ

言葉が私から離れて自由で開放的、輝いている――村上鞆彦

書くことの伝統を思い出させてくれる存在として、いま、触れるべき作家
     ――神野紗希
これほどのことが俳句にはできるのだ――関 悦史


著者あとがき

 今『集成』の最終稿を前にしていると、いろいろな思いが湧いてくる。ことに年譜に目を通すたび、その時々の自他の有り様が、風景や事象を通して浮かんできて、只今の私の五感を刺激し精神をよみがえらせてくれる。と同時に、現実の身はこくこくと衰えてゆくことを如実に体感させられている。   ふと永田耕衣の「衰退のエネルギー」という言葉が頭をよぎる。衰退の途上で発せられる一瞬のエネルギーが、只今の私をどうにか充たしてくれることにも気づかされたのであった。
 九十歳の今、師の齢を超えている自分に驚かされ、忸怩たる思いでいっぱいだ。ひたすら書くことしか出来なかった私。そのような私を、作家の目をもってあたたかく育てて下さった赤尾兜子、橋閒石、桂信子の三師に、心から感謝申し上げます。
 このたびはいろいろな人にお世話になった。関悦史さんは年譜・解題の作成を、佐藤文香さんは句の入力やその他マネージメントをお引き受け下さり、堀下翔さんは、文学館や図書館から必要な資料を集めて入力して下さった。この方々の協力がなければ『集成』は実現しなかった。(後略)


武良寸評―エロス的実在言語で描かれた魂の抽象絵画世界 

1 彼岸此岸時空自在の天女性を纏う俳句

柿本多映の俳句人生は五十代に始まる。
 最初から完成された独自の表現世界を持っていたという。
 それは本書『柿本多映俳句集成』を句集上梓年代順に読んでゆけば頷けることだ。
また、こうして「集成」のかたちで通読することで判る別の特色もある。
 それは作風が一貫していて、ぶれがないことだ。変化はしないが多様に深化しつつ、中心軸に向かって求心力のようなものが働いている。
変化はしないが同心円的、あるいは螺旋状に深化してゆく印象がある。
若いころに短歌を学び詠んでいた体験的素養が、俳句の深いところで生きている。
深いところで日本詩歌文学の妙なる調べが響くようなところがあるような気がする。
端正な有機定型の俳句だが、その季語が伝統俳句的に記号化することなく、自分という身体的存在と過不足なくシンクロする作風で、またその歌魂を支える精神は自在である。
軽やかさを纏いつつ深い文学的な思弁に満ちている。
柿本多映の自然物はどこか官能的だ。存在的感応としての官能である。
彼岸、冥界、死、それらが境界的に存在を許されず、溶融している。
生と死が自在に感応している、という意味の官能と言えば少しは近いだろうか。
私は柿本多映の俳句には、天女的な自在さを感じる。
それは男性俳人の世界にはないものであるという意味で、紛れもなく柿本多映という天女的女性性が詠ませている俳句ではないか。
そして何よりも、この『柿本多映俳句集成』は、直接的な散文的意味伝達様式の言語表現では表現することができない、確固たる文学としての俳句が、この量と質において創造されていることの、歴史的偉業を目の当たりにしているという感慨を齎すものだ。

 2 エロス的実在言語で描かれた魂の抽象絵画世界 

  立春の夢に刃物の林立す
  真夏日の鳥は骨まで見せて飛ぶ
  出入口照らされてゐる桜かな

 初期から師系の赤尾兜子、桂信子、橋閒石らを瞠目させたことが頷ける句だ。
 句の中に実在性の手応えを持って置かれた確かな具象を表現で、形而上的詩世界、私たち人間の不思議な観念世界を描き出してみせる作句法だ。
 柿本多映はこんなふうに、その初期から完成した作家だったようだ。
桂信子は第1句集『夢谷(ゆめたに)』の序文で、
「ものの本質を見分ける鋭どい眼、美を愛するこころ、それらは柿本さんの生れながらにして具わったものである」
と書いている。
滋賀は大津の名刹に育ち、毎日新聞記者の妻として各地を巡った環境も彼女の俳句世界を豊にしたのだろう。言語感覚が他の追従を許さぬほど鋭い。

立春の夢に刃物の林立す
鳥曇り少女一人の鉄砲店
真夏日の鳥は骨まで見せて飛ぶ

 
こんな形で「刃物」「鉄砲店」「骨までみせて」と句に詠みこめる女性俳人はいないだろう。男性俳人には類語は使われているが、背景に「社会性」が透けて見える俳句になりがちだ。
 この句にはその気配がない。
あるのは作者の身体感覚と理性が捉えた具象的抽象画のような、独自の詩空間への「異化」作用である。それこそ現代俳句の重要点ではないか。
 多くの賞を得た第6句集『仮生』(2013年)。
夫の死もあって「すべての命は死を、時空をも包含する」という詩境から生まれた句。

人の世へ君は尾鰭をひるがへし
葛の花生者はこゑを嗄らしつつ
補陀落や春はゆらりと馬でゆく

 死が詠まれるときも、時空を悠然と超越した表現になる。

  国原の鬼と並びてかき氷
  蟻の死を蟻が喜びゐる真昼

 彼女の詩想世界には「鬼」もいていっしょに「かき氷」も食べる。他者の死を喜ぶ鬼の心を持つ「蟻」を住まわせている。

  暁の鐘兄妹いまも蛇泳ぎ
  身重しと水に入りけり御所の蛇
  人体に蝶のあつまる涅槃かな

 観念世界を表現するとき、その身体性、エロスの力を失わず、そのことが言葉に虚であることの実在性を際立たせている。人間の内面世界の不思議さと、確かな精神的リアリティがある、ということではないか。

 私の拙い選句で恐縮だが詩歌文学館賞を受賞した『仮生』から、以下に数句を抽出してみる。集成全体から引くと散漫になるので、一冊の句集から選出すると、その句集の統一的な主題性も感じ取ってもらえるのではないだろうか。

鳥辺山ほどに濡れゐるあやめかな
死後空も鯰の髭も乾くらん
燕子花ゆめに幾たび墜死して
みちのくの螢とびたつ荒筵
輪唱をよぎる青筋揚羽かな
なめくぢの光跡原子炉は点り
起きよ影かの広島の石段の
二枚貝恍惚として紐がある
身を統べるものなどなくて青葦原
葛の花生者はこゑを嗄らしつつ
骨として我あり雁の渡るなり
われに倦みまた綿虫に誘はるる
神様に命日があり日短か
蠟燭の芯のおそろし地震のあと
流行風邪もう人に戻らぬ石と芒かな
冬桜湯に浮く乳房あるにはある
短日の死者の産毛をみて戻る
葦を焼く諸人天に在るごとし
補陀落や春はゆらりと馬でゆく
遙かより来て初蝶は舌見せず
雛の夜の雛は顔のみあらはにし
てふてふや産んだ覚えはあるけれど
釣鐘の微動を蝶と頒ちあふ

多様な表現技法が覗える。兜太は生身の作者である自分と、俳句を詠んでいるときの人格を分けて、後者を「つくる自分」と呼んだ。つまり表現主体が「私」ではなく、言語表現行為自身にあるという俳句表現観である。たとえば、


身を統べるものなどなくて青葦原
われに倦みまた綿虫に誘はるる
冬桜湯に浮く乳房あるにはある
てふてふや産んだ覚えはあるけれど

これらの句は散文の文法に従えば「私」が、自分の心情を吐露した形の表現になっている。しかしその内容が生身の「私」の俗な思いのようなべたつきが一切ないのは、この句を表現しているのが「私」ではなく、言語表現行為自身という言語主体だからだ。
言語主体は「私」も他のものごとと同じように客観化して表現する。
そこに表現世界の自由、自在さが生まれる。
柿本多映の俳句世界は、抽象的な哲学世界である。
その形而上的な観念世界を表現するには、表現者が言語主体である必要があるだろう。

死後空も鯰の髭も乾くらん
燕子花ゆめに幾たび墜死して
馬は馬であること知らず八月来
骨として我あり雁の渡るなり
われに倦みまた綿虫に誘はるる
神様に命日があり日短か
短日の死者の産毛をみて戻る

 これらの句の幻視性、超現実性は作者の哲学的内面世界の表現である。
生身の「私」を引き摺る俳句を詠む者には、こういう格調のある世界は決して表現できないだろう。
もう一人の柿本多映という言語主体でなければ表現不可能な世界なのだ。
女性性すら超越して、永遠の世界に住まいを移した妖精が詠んでいるような世界である。
 柿本多映俳句世界は、身体性に立脚した、エロス的実在言語で描かれた魂の抽象絵画世界とでも総括批評すればいいのだろうか。
 単純なメッセージ性を排除した、解けない謎を含む味わいがあり、何度でも繙き直したくなる魅力のある集成である。


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