短編小説『雪だるまのはせがわさん。』
雪だ。
仕事を終えて、外に出る。時計は二十二時を回っている。東京タワーの麓、芝公園の前は、重そうな雪が吹雪くように降り、道を真っ白に洗っている。雪が積もるのを見るのは、いつぶりだろう。
思い出せないな。
東京に来て、もう十年が経つ。故郷には、五年ほど帰っていない。実家のある北海道は、いつも乾いた冷たい雪が降っていた。子どもの頃は冬になると外に出て、雪いじりをして遊んだ。雪だるまをつくったり、そり滑りをしたり、雪合戦をしたり。なぜ急にこんなことを思い出したのだろう。
今日は仕事で失敗してしまったから、少しばかり、つらい現実から意識を遠ざけたいのかもしれない。
何にせよ、自分の気持ちはどうあれ、毎日は何の慈悲もなく続いていく。記憶の彼方にある子どもの頃のように、楽しいことばかりで過ごしていた日々は二度と戻ってこない。何の変化もなく、面白くなくとも、まっすぐ前に進んでいくしかない。どれだけ今日をやっとの思いで乗り越えても、また明日は知らん顔をしてそっくりそのままやってくる。
日常とは、一本道のトロッコのようだ。
人生は否応なしに続くのだ。
ただ、果てしなく。
妻夫木は、弱音をはかない誠実なサラリーマンだった。今年で三十七歳になる。芝公園駅の最寄りにあるシステム会社で働いている。彼は誰よりも真面目に仕事をこなし、言い訳もせず、愚痴も言わず、物腰もやわらかだった。同姓の俳優と同様に、顔立ちも悪くなく、あらゆる場面で人を不快にしない術を心得ていた。
ただ、人よりも少し口べたで、弁の立つ人間にはすぐに言いくるめられてしまうことがしばしばあった。そんな彼の性格を逆手にとって、仕事の責任を転嫁する人間も会社の中には何人かいた。今日はまさにそうした人間の思惑にはまり、本来なら彼が負うべきではない仕事の責任を取らされ、妻夫木はひどく落ち込んでいたのだった。
彼は傘をさして静かに歩き始める。湿った雪がばさばさと音を立てて傘にぶつかる。水気をたっぷりと含んだ重い牡丹雪だった。まるで今日の俺の気持ちを代弁しているみたいだな。
ぽんぽん。
背中を叩かれた。
妻夫木は後ろを振り返る。
そこには、雪だるまがいた。
妻夫木は驚き、ぽかんとして雪だるまを見つめた。
それは正真正銘の雪だるまだった。
彼と同じくらいの背丈の、白い雪のかたまりがふたつ積み上げられていて、顔の部分には石ころが埋め込まれ、目と鼻と口を表している。木の枝が差し込まれ、枝の先に手袋が引っ掛けられていて、それが手の代わりになっている。雪だるまの片方の手にはコンビニ袋がかけられていて、もう一方の手は、ぽんと妻夫木の肩にのせられている。
そして、雪だるまは話し始めた。
「妻夫木さん。お久しぶりです。わたしです。はせがわです」
「はせがわ」
妻夫木は無意味なおうむ返しをする。無理もない。彼が雪だるまと話すのは、これがはじめてのことなのだ。雪だるまはそんな妻夫木の様子を気にせず話を続ける。
「やっと会えましたよ。妻夫木さん。ずっとあなたを探していたんです。わたしは、はせがわです。あなたにお礼を言うために、今日はここまでやってきたのです」
「はせがわさん」妻夫木は繰り返す。
「はい、はせがわです。雪だるまのはせがわです。よろしくどうぞ」
「はあ」
妻夫木は気の抜けた返事をした。
雪だるまのはせがわさん?
いったいこれは何の冗談なのだろう。
とりあえず言えることは、この雪だるまは、雪だるまであるにも関わらず、話をしているということだ。雪だるまが、日本語を話している。
「妻夫木さんはわたしのことを覚えていますでしょうか? 二十六年前、わたしはあなたにつくられたのです。わたしはあなたのおかげで、雪という総体から、個であるはせがわとして生を授かったのです。わたしはどうしてもそのお礼がしたく、このように東京に吹雪がやってきたことを好機として、ここにやってまいりました。良い雪です。少しベタつきますが、降らないよりはましです。雪は雨と似ていますが、雪は雨よりも洗練されており、より啓示的であり… わたしは少ししゃべりすぎでしょうか?」
はせがわさんは突然黙った。
黙ると、はせがわさんは本当に、ただの雪だるまだった。
OLがふたり、妻夫木とはせがわさんの横を通り過ぎていった。OLたちは妻夫木を見て笑っていた。オフィス街のど真ん中で、立派な雪だるまをつくった無邪気なサラリーマンだと思われているのだ。妻夫木は居心地が悪くなり、彼女たちの姿が見えなくなるのを確認してから、雪だるまに話しかけた。
「はせがわさん。俺はたしかに、十歳くらいのころは、雪で遊ぶのが好きだったし、たくさん雪だるまをつくったような気がする。だけど……いや、だからこそと言うべきかな。俺はひとつひとつの雪だるまについて、詳しく語ることができない。もっと正直にいえば、俺は当時のことをぜんぜん思い出せないんだ。だから、きみのことも覚えていないんだよ。それに、きみに感謝されるようなことなんて何もしていないと思うし、なんといえばいいのか……」
「ちがいます」
はせがわさんは、突然大きな声を出した。
はせがわさんは、少し上下に揺れた。
雪が、ぱたぱたと音をたてて、冷えた地面に落ちる。
「ちがいます、妻夫木さん。あなたは特別なことをしたのです。だからこそ、わたしはこうして生を授かることになったのです。いわば、あなたは造物主なのです。だからわたしは、あなたに感謝しなくてはなりません」
はせがわさんは上下に揺れた。
少し興奮しているようだった。
妻夫木は聞く。
「それは、つまり……俺はきみに何をしたのかな? 具体的に」
はせがわさんは黙る。黙るとやはり、ただの雪だるまだ。
だが、はせがわさんは、どうやら、たしかに、生を受けているのである。
雪だるまのはせがわさんは、神妙に話す。
「あなたは、あのとき、尊い行いをされました。あなたは、ただの雪でしかなかったわたしのようなものに、雪だるまとしてのかたちを与えただけでなく、なんと、名前を授けてくださったのです。はせがわ、と」
妻夫木は、目をまん丸にして、ぽかんと口を開けた。
はせがわさんはかまわず話を続ける。
「それは素晴らしい瞬間でした。そのときに、わたしははっきりと目醒めました。わたしは、雪という画一化された総体から解放されたのです。わたしは、はせがわなのです。わたしは、はせがわであり、はせがわ以外の何物でもないのです。あなたはそのような尊い行いをなされた。素晴らしいことです。今、あの瞬間のことを思い出しても、わたしは感動にうち震えます。わたしは、冬の歓びの歌を聴いています。わたしは… すみません、わたしはしゃべりすぎでしょうか?」
はせがわさんは黙った。妻夫木も黙る。
そして、申し訳ない気持ちになる。
ごめんよ、はせがわさん。
俺は何も覚えていないんだ。
はせがわさんはまた話し始める。
「妻夫木さん。とにかく、わたしはあなたに感謝しています。今日はあなたに会えて本当によかった。わたしは雪が降るたびに、身体を再構築してあなたを探し続けました。完全なるはせがわとはいえ、わたしはやはり雪によってつくられています。太陽に照らされて、わたしは何度も溶けました。しかし、そのたびに、あなたへの感謝の想いを頼りに何度も蘇りました。輪廻転生を経て、それでもわたしは、はせがわであり続けました。そして、今日はお礼に、ささやかではありますが粗品をお渡ししたく、このようにコンビニ袋を下げております。妻夫木さん。受け取っていただけますでしょうか?」
妻夫木は黙って頷き、はせがわさんが差し出したコンビニ袋を受け取る。たとえ身に覚えはなくとも、ここまで感謝されて、その気持ちを受け取らないという選択肢を、妻夫木は持ち合わせていない。
「……ありがとう」と妻夫木は小さく言い、コンビニ袋を受け取った。
はせがわさんは続ける。
「さあ、時間です。あと三十分五十二秒後に雪はやみ、六時間四十五分三十八秒後には溶けてなくなります。わたしもまた、総体としての雪に戻り、溶けて消え去ります。妻夫木さん。今日はあなたに会えて本当によかった。どうかお元気で。あなたは、自分では気づいていらっしゃらないかもしれませんが、特別な力をもっています。あなたはわたし以外にも、さまざまなものに、知らず知らずのうちに尊い行いをし、多くの存在に感謝されています。どうかそれを忘れず、誇りを持って、これからも得難い日々を生きてください。あなたが生きていること。それはとても美しいことです。あなたはもっと、感謝されるべき存在なのです。それをどうか忘れずに。お元気で」
はせがわさんはそこまで話すと、身体を上下に揺らしながら方向転換し、妻夫木に背を向けた。
妻夫木は、はせがわさんの背中に声をかける。
「はせがわさん。きみはまた、雪が降れば、姿を見せてくれるのかな?」
はせがわさんは黙る。そして静かに話し始める。
「どうでしょう。あるいはわたしは、もう、はせがわとして姿を見せることはできないかもしれません。わたしは、妻夫木さんにお礼を言う、そのためだけに、はせがわ自身を保ちつづけました。そして、あなたへの想いをたよりに輪廻転生を続けることは、決して簡単なことではありませんでした。だから、再会をお約束することは、すでに目的を成した今のはせがわにはできません。でも、これから先、たとえ、はせがわが永遠に失われたとしても、悔いはありません。わたしは、妻夫木さんに感謝し、気持ちを伝えるという大いなる目的を、無事に果たしました。生きるとは、生を受けるとは、おそらくそういうことなのだと思います。誰かに感謝し、その想いを伝えることこそ、生きる意味そのものなのです」
はせがわさんは振り返らずに、上下に身体を揺らしながら姿を消した。
はせがわさんがすぐ近くのビルの角を曲がって姿を消すまで、ずいぶんと長い時間がかかった。そのあいだ、妻夫木ははせがわさんの背中を黙って見つめていた。はせがわさんの姿が見えなくなるまで、妻夫木は見送り続けた。
東京に降り続いた重い雪は、静かに止みつつあった。
冷たい風がオフィス街を飛び回り、妻夫木の身体をじんと包んだ。
「帰ろう」と、妻夫木は思った。
妻夫木は、ゆっくりと歩き始めた。
仕事終わりにも関わらず、身体は軽く、疲れをまったく感じなかった。妻夫木は、駅に向かって歩きながら、はせがわさんからもらったコンビニ袋の中身を見る。
そこには、今はもう亡くなってしまった妻夫木の母親が、子供の頃、雪遊びをしにいくときに、いつも持たせてくれていたホッカイロが入っていた。
はせがわさん、と妻夫木は思った。
気づくと、知らない間に涙がにじんだ。
雪だるまのはせがわさん。
なんだか、ありがとう。
俺も、きみに会えてよかった。
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