【今日のnote】「そしてあなたの希望はどこにある?」
どうも、狭井悠です。
毎日更新のコラム、90日目。
台風一過。
地元の三重県は、なんとか無事だったようですが、大阪・京都などの被害が想像以上で、なんとも悲しい思いになります。
Twitterには、次々に恐ろしい映像が流れていて、僕が大学生の頃に毎年花見をしていた京都の平野神社も、壊滅的な被害を受けたようです。
どうか、関西方面の方々は、くれぐれも安全第一に、日常をお過ごしいただければ幸いです。
さて、昨日は台風の中、歌舞伎町のホテルにこもって一日中、ひとりで仕事をしていました。
東京滞在は、ありがたいことにほとんどの日程があっという間に予定で埋まってしまうのですが、いつも必ず、「東京にいるけれど誰にも会わない一日」というのが欲しくなるんですよね。
これは、僕の中で、物書きとしてのフラットな感覚を持つためのルーチンというか、儀式みたいなものなんです(あまり人には理解されないので、詳しく説明したことはありません)。
ちょうど、昨日はそういう時間で、天候も悪かったこともあり、存分にひとりで作業に没頭していました。
ホテルの部屋の中は、しんと静まり返っていて、新宿の喧騒の中にいることを、ふと忘れさせてくれます。
そして僕は、都会にいて、毎日遊び浮かれる普段の僕ではなく、文章を書くための「フェイスレス」な状態の僕に戻る。
——文章を書くことに集中するとき、僕は顔を外します。
最近は、それが物を書くときのスタイルになりつつあるかもしれない。
夜がけに仕事がある程度落ち着いたので、先日コンビニで購入した週刊SPAを取り出し、8月28日からスタートした燃え殻さんの連載「すべて忘れてしまうから」の第一回「そしてあなたの希望はどこにある?」を読みました。
燃え殻さんといえば、小説「ボクたちはみんな大人になれなかった」が爆発的に読まれ、会社員でありながら、一躍ベストセラー作家となった方です。
僕は、Twitterに綴られる静かな文章がとても好きで、燃え殻さんのアカウントは、昔から、いつも楽しくツイートを拝見しています。
そんな、燃え殻さんの週刊SPAのエッセイですが、この第一回を、僕はすごく良いタイミングで読んだような気がしました。
自分の人生に今、とても必要な気づきを、与えてもらえたように思えたんですよね。
それは、燃え殻さんと大槻ケンヂさんの会話の中での、とあるエピソード(※以下、今回のエッセイを一部ネタバレします、すみません)。
燃え殻さんは、大槻ケンヂさんの著作「リンダリンダラバーソール」の登場人物であり、ヒロインであるコマコと主人公のやりとりに、ものすごく救われてきた経緯を持っていて、そのことを大槻さんに直接お話したそうです。
コマコは、物語の主人公である大槻さんをいつも励ましてくれる、かけがえのない恋人。
そして、十数年後、地元のライブハウスでライブしている大槻さんのもとに、すでに結婚をして年を重ねたコマコが姿を見せ、「あなたは何も変わらないね」と言ってくれて、最後に「わたしにラバーソール買ってよ」と言う。
そんなシーンにものすごく感動したと告げると、それは実際にあった出来事ではなかったという事実を、大槻さんから告げられたそうです。
本当は、彼女(コマコ)は現れなかった、と。
小説のラストに書かれていたのは、実際にあった出来事ではなく、著者である大槻さんの「希望」が書かれていたのでした。
そのときに、燃え殻さんはご自身で気づきます。
燃え殻さんの代表作である「ボクたちはみんな大人になれなかった」もまた、自分なりの精一杯の希望を込めてつけたタイトルだったのだ、ということを。
「そしてあなたの希望はどこにある?」
「そして僕の希望はどこにある?」
実は、僕も今、公募に挑戦するための小説を書こうと思っているんです。
その想いは、この数年間ずっとお会いすることができていなかった、小説の書き方を教わった師匠と再会できたことによって、さらに強いものになっています。
以下のnoteに、小説を書くことに対する想いと、師匠との驚きの再会の出来事について、詳しくまとめています。
お時間あれば、以下もぜひ併せて読んでみてください。
実は、僕が今、書こうとしている小説のテーマは、恥ずかしいくらいの「希望」を込めたものにしようと思っているんです。
——人生ままならない人間が、人生ままならないまま、なんとか大人になり、それでもバカで、純粋で、どうしようもない、出口のない恥ずかしい想いを抱えて、今もまだ生きている。
そんなことを、そろそろ根詰めて、文章にしてみても良いのかもしれない。
燃え殻さんの今回のエッセイを読むことで、なんだか、勝手ながら、背中を押されたような気持ちになりました。
人生はままならない、ままならないんですよ。
たとえ、理想の自分になろうとあがいたところで、本当に欲しいものなんて、人生ではもう、ほとんど、まったく手に入らない。
なぜならば、僕が(あるいは僕たちが)欲しいものは、もう通り過ぎてしまったものだから。あるいは、欲しがってはいけないものだからです。
それでも、いつか、どこかに届くかもしれないという想いを込めて、暗闇から差し込むほんの一筋の光だけを頼りに、手を伸ばし、文章を書き、そこにすべての想いを閉じ込める。
光が闇に閉ざされるならば、別にそれでもかまわないんです。
でも、それでも、光ある限り、書かざるを得ないことがある。
人生ではもう、ほとんど、まったく手に入らない、欲しがることさえ叶わない、そんな絵空事でさえ、物語の中では、ほんの少しだけ、それを現実にすることができるから。
そして、それらをすべて忘れてしまう前に、僕は(あるいは僕たちは)それにかたちを与えたいんだと思います。
失いたくはない、かけがえのない記憶に。
あるいは、今しかない、胸を鷲掴みにするこの想いに。
なんだか、このエッセイを書いている間、ホテルのロビーで、奥さんと子供に、幸せそうにテレビ電話をしているお父さんの話し声がずっと聞こえていて、不覚にも泣きそうになってしまった。
——ままならない人生の中で、僕はまだ諦めずに書き続けています。
燃え殻さんの週刊SPAのエッセイ、とっても素敵だったので、興味のある方はぜひとも、読んでみてくださいね。
今日もこうして、無事に文章を書くことができて良かったです。
それではまた、明日もこの場所でお会いしましょう。
ぽんぽんぽん。