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迷ったら、ポップなほうを選ぶ。

Dr.スランプ、現わる。

 最近、どうにもスランプ気味な狭井悠です。

 どれくらいスランプなのかというと、「何にスランプなのか?」という問いにうまく答えられないくらいにはスランプです。もはやDr.スランプ状態なのかもしれない。アラレちゃんとか全然好きじゃないけれど、アラレちゃんが今「キーン」と走り寄ってきて、「んちゃ!」とか言いながらハグで励まされたら、鼻水垂らして泣いてしまうかもしれない(大げさ)。

 別に、僕がスランプでも世界はいつも通り動いているし、空は青いし、メシもうまいわけですが、やっぱり世界の主役は皆それぞれに自分自身のはずで、そうなるとスランプ気味な視座から見た自分の世界はちょっと楽しくありません。

 今回のコラムでは、今の僕の気持ちを正直に吐露したうえで、今後の方針を決めていきたいと思います。


とりあえず、「小説なんて書くのやめちまおうか」、とはっきり思ったのがここ最近のことです。

 突然すみません。

 わりとマジで思いました。

 何というか、僕が書く小説の必要性がどこにあるのか、まったくわからなくなってしまったのです。

 とにかく孤独でした。

 皆さんは、たけし映画の『アキレスと亀』って観たことありますか?

 あの映画で、売れない絵描きに、大竹まこと扮するおでん屋のおっさんが言うセリフがあります。

 あんたたち芸術なんて言ってるけど、アフリカ行って、飢えて死にそうな人の前にピカソとおにぎり置いてごらん。誰だっておにぎり取るだろう? 人間飢えてりゃ芸術なんて関係ないんだよ。芸術なんて所詮まやかしだよ。『アキレスと亀』(2008)

「それでも俺はピカソを取る!」と叫んだ売れない絵描きは、そのあと自殺してしまいます。ああ、暗い暗い。

 このセリフの受け売りじゃないですが、世の中のほとんどの表現活動は衣食住の枠外にあるもので、生きていく上での必要性なんて別にないっちゃあないし、メシも食えない小説なんて、やりたくなきゃ、やめればいいんじゃないの?と自分でも思います。

 ただ、なぜ今までこんなことを思いもしなかったのに、突然思い詰めるようになったのかを考えてみました。


「誰が読むんだよ、そんなもの」と思った

 なぜ突然「小説を書くことをやめちまおうか」なんて思い詰めるようになったのか。その理由は明白で、「楽しくないから」なんですよね。

 なんでもそうですが、自分が楽しくなければ何事も続けることはできません。僕はもともと辛抱強い性格ではないので、楽しくないと思うことは本当に続きません。

 では、なぜ楽しくないのか?ということを考えてみると、「書いている小説のテーマが楽しくないから」という答えが自分の内側から返ってきました。

 僕がここ最近、小説を書くうえでテーマにしたいと考えてきた内容は、生死について、輪廻転生について、唯識思想について、歪んだ恋愛について、日本の未来の不安について、修験道について、などなど。重苦しいんですよ。誰が読むんだよ、そんなもの。そんな内容ばかりでした。

 だから、書いていて疲れるし、身を削る割には世間からの反応もなく、どんどん楽しくなくなっていくわけです。

 もともと、ネットなんて箸休め的にパラパラと目につくものをつまむような世界だし、重苦しいメッセージは基本的に求められていません。よりライトで、かんたんで、見栄えが良くて、体にも良さそうなものがウケるに決まっているんです。そんなの頭ではわかってるよ。

 ではなぜ、わざわざそんな楽しくないテーマを僕が小説のテーマとして取り上げていたかというと、自分が書かざるを得ないと思うテーマだったからです。

 放っておけないこと。書かざるを得ないこと。
 人はいつ死ぬかわからないということ。
 世の中には不可思議なことがあるということ。
 死の先にあるもの。
 報われなかった想い。
 出口のない感情。
 失われていく日本のアイデンティティと霊性。

 きっと、どれも大事なことなんです。放っておいたらいけないようなことだってあるんです。だから、ここしばらくはものかきとして、そういうテーマに向き合わなきゃいけないんだという使命感に支配されていました。

 ネット上で、ライトでわかりやすい、かんたんな文章が毎日毎日花火のように打ち上がり、共感という名の火薬を種にしてパンパンと消費されているのを眺めれば眺めるほどに、僕はそうした軽い光の及ばない、深い闇に包まれた藪の中に分け入っていこうとしていました。

 僕はここ最近、共感という言葉を敵視していました。詳しくは書きませんが、この半年くらいの間に、共感という言葉を用いるタイプの人たちから受けた仕打ちで悔しい思いをしたり、孤独な状態に追いやられたりもしたからです。共感なんて、嘘つきが訳知り顔で使う言葉なんだ、と。

 だから僕は、世の中的な共感の光に背を向けて、この半年ほど、隠者のように暗い道をひたすらに歩んできたのです。共感とは対極の位置にあるものを求めていました。それは、共感という言葉を一時でも信じてしまった自らへの復讐のような行為でした。

 はっきり言ってしまえば、僕は小説を書くことで、自らへの復讐を目的に、いわゆるミシマ的なストイックでディープな世界を覗き込んでいたわけです。

 こわいですね。ぜんぜんポップじゃない。

 でも、三島由紀夫があれこれと過去に予言していた未来予想図は、現代においてほとんど現実のものになっています。ミシマはすごい。彼は本物のものかきであり、霊性を持った唯一無二の存在でした。これは本当のことです。

 でも、現代においてミシマ的な世界を手本にしてものかきをやっても、もう遅いというか、もはや手遅れなんだという気がしています。

 それはまるで、かげおくりの影を指でなぞるようなものです。そして、復讐を目的とした表現というのは往々にしておぞましいものになります。「誰が読むんだよ、そんなもの」ということです。

 どんどん失われていく日本的なアイデンティティと霊性。その流れを押しとどめることなんて誰にもできません。僕たちはもう、回復の見込みはないほどに、ミシマ的な世界観の中では失われた存在なんです。僕たちはその事実を受け入れて、古きを忘れ、新しい言葉を求めて生きていくしかない。

 だから、僕の中でふつふつと煮えくりかえっていたミシマ的な無念の憤りと復讐の想いは、僕の心の内で厳重に蓋をして、お札を貼って、九字切りをして封印して、墓場まで持っていくことに決めました。

 具体的には、6月25日に、noteにアップした小説までが限界でした。ちなみに、その小説はすでに削除したので、もうこの世には存在しません。コピーも取りませんでした。誰の目に触れることもありません。僕の心の中と、読んでくださった一部の方の記憶の中にあるだけで充分です。

 前回の小説を書いてみてわかったのは、世の中には書いてはいけない類いのテーマもあるということです。僕はもう、二度と同じような小説を書くことはないでしょう。

 とにかく、終わりにしました。これ以上は僕にはできません。はじめから、ネットでやるようなことではなかったんです。だからもう、深入りしないことにします。これ以上やったら僕の体がいくつあっても足りない。だからね。もう。おしまい。


迷ったら、ポップなほうを選ぶ

 というわけで、今後について。

 とりあえず、小説を書くことはまだやめません。ひとりでも読者がいる限り、僕は何かを書きたい。その想いは変わらないし、やっぱり文章を書くのが好きなんです。

 先日も、正直しんどい、という話をしたら、とりあえずやめずに続けてほしいと言ってくれる人もいました。読者はわたしだよ、と。その一言だけでも、ものかきは救われるんです。ありがとう。

 これからは、迷ったらポップなほうを選ぶようにします。苦しいほうと、楽しいほうだったら、楽しいほうを選ぶ。別にそれでいいじゃないか。

 ミシマのような求道者的な生き方には、今でも憧れはあります。でも、それは人生の最後の楽しみにとっておけばいい。世の中が本当に嫌になったら、自殺するのも味気ないし、いっそのこと山籠りして出家すればいいじゃん。それまでは、俗世にしがみついて、もう少し楽しめばいいじゃない。それくらいのポップな感じでいたい(これはこれでハードコアな考え方なのかもしれないけれど)。目に見えないものを背負い過ぎると、本当につらいんだ。

 しばらくは、肩の力を抜いて、ものかきを楽しんでみたいと思います。書かざるを得ないものを命を削って書くよりも、書きたいものを気楽に書いてみる。そんなスタンスでやってみます。もう少し、気楽に生きたい。

 もともと僕は、ものかきのスタイルとしてはミシマ的ではなく、ダザイ的なほうが向いているんです。自堕落で、根気がなく、酒が好きで、女性が好きで、自分勝手で、自分嫌いで、お人好しで、のらりくらりと生きている。そんなふうに、肩の力を入れずに、もっと自然体になって、好きなように文章を書いてみますよ。

 はい。というわけで、閑話休題。

 迷ったら、ポップなほうを選ぶ。

 まあ、ダザイ的なものかきのスタイルが果たしてポップなのかどうかはわかりませんが、ミシマ的なスタイルを続けるよりはマシでしょう。ミシマより、ダザイのほうが現世でもバズりそうだよね。

 そんな感じで、完全に怪しげな独り言コラムでしたが、最後まで読んでいただきありがとうございました。今後とも狭井悠をよろしくお願いいたします。

 負けっぱなしの人生だから。
 このまま死ぬわけにはいかないのさ。

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狭井悠(Sai Haruka)profile
三重県出身、立命館大学法学部卒。二十代後半から作家を目指して執筆活動を開始。現在、フリーランスライターを行いながら作家としての活動を行う。STORYS.JPに掲載した記事『突然の望まない「さよなら」から、あなたを守ることができるように。』が「話題のSTORY」に選出。STORYS.JP編集長の推薦によりYahoo!ニュースに掲載される。2017年、村田悠から狭井悠にペンネームを改名。
公式HP: https://www.sai-haruka.com/
Twitter: https://twitter.com/muratassu
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