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"The Hole" 6/8

 自分の望むようには見ていてもらえなかった悲しみと、その反動として取ってしまったぶっきらぼうな態度について。自立した子どもとして誇りに思っていた息子の抱えていた声に呼応する、どう接すればよいかわからず恐かったという母親の本音。

 それだけではない、お互いが秘めていたいくつもの感情の交差を目の当たりにしながら、彼はこんなふうに思った。人がすれ違ってしまうのは、いつの日かそこにある繋がりの大切さをより強く感じられるようになるためなのかもしれない。

 本当に大事にしたいことは、何度も見失ったり忘れてしまったりするからこそ、思い出すたびにその尊さを強く、深く感じられるんじゃないだろうかと。


 大学生として最後の春休みには、お互いの人生にとって初めてである、母と息子二人だけでの海外旅行に出かけた。行き先はスペインで、慣れない土地であることもあってか喧嘩は絶えなかったけれど、それさえも楽しく感じられた。

 街の中心部で夕食を終え、ホテルに向かって歩く道すがら、彼は母親にそんな気持ちを伝えた。こうして二人で旅行に来られて本当に良かったと。母は少し照れくさそうに笑っていた。

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 癌の再発が明らかになったのは、リョーマが東京で社会人一年目のせわしない毎日を送っていたさなかだった。ある日父親から電話がかかってきて、いつもより低い声で母親の病態を告げられた。一度目が奇跡的に回復したこともあってか、母親が今度は確実に死へと近づいているという現実を飲み込むまでに時間がかかった。

 見舞いのために帰省し、実際に自分の目で確かめた母の姿は間違いなく衰弱していた。心がどこか違う場所へ移ってしまったような、妙に感覚のない空洞みたいな存在を胸の内に感じながら、彼は病室の外へ出た。

 思うように言葉が浮かんでこなかった。もっと何かを言ってあげるべきだと思ったけれど、どんな声でそれらを伝えたらいいのかが分からなかった。

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