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バレンタイン・ボーイ

 バレンタインデーにフランツ・カフカの「城」をポケットへ突っ込んで禁煙外来を訪れるような男は、全世界を探しても僕一人しか見つからないだろう。

 もし他に見つかったとしたら、気が合うかもしれない。でもそんなやつ(幸せな人間とは言えない)と友達になり始めたら何かが狂っていくような気がする。それが、誰も僕にチョコレートを渡そうとしない理由なのかもしれない。

 天気が良かったからか、そのせいでますます憂鬱になった。今日がバレンタインであることは特に関係ないと思う。「何もしなくていいよ」と彼女に言ったのは僕自身なのだから。

 そんなふうに思いを巡らせながら駅へと向かう道を歩く。なんだか何もかもを破壊したい気分になって、Bluetoothのイヤフォンからアークティック・モンキーズの曲を流す。「I Bet You Look Good on the Dancefloor」。銀色の包みをほどいて、気晴らしにミントのガムを放り込む。

 甘いものはいらない。黒いコーヒーと煙草。僕が求めているのはなぜだかいつも、苦いものばかりだった。


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 駅の入口に近づくと歩道の工事が進められていてうるさかったので、スマートフォンを取り出して音楽を止める。どっちを聴いたって騒がしいのだから、ほとんど同じようなものだ。

 改札へと続く階段を下りながら、あの人のことを考えてみる。僕は彼女のことを本当はどう思っているのだろうか? たとえば十日ぶりに家へ遊びにいくとき、僕は彼女を愛しているように感じる。けれどもその愛情は夜になって帰りのバスでも感じられるほど、確かな存在ではなかった。

 地下鉄のホームに辿り着いてジェイムス・ブレイクの曲を再生すると電車がやって来て、線路の上に貼られた広告のクリニックへ僕を運ぼうとする。最後尾の車両に乗って立ち尽くしていると扉が閉まって、僕の体も徐々に揺れ始めた。

 次の車両へとつながるドアは開け放たれていて、一番前にあるはずの乗務員室まで見渡すことができた。ひと繋がりの車両たちがくねくねと形を変える様子をぼんやりと眺めていたら、僕の目の前にある現実が奇妙に歪んで、そのまま溶けていってしまうような感覚に襲われた。

 ノイズキャンセリングのせいで輪郭をはっきりさせた「Are You Even Real?」のヴァイオリンが聞こえてきて、このまま全ての境界線が消え去ってしまったらいいのにと僕は思った。


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 病院を出るともうやることがなくなってしまったので、とりあえず近くの美術館へ向かうことにした。何も手に持ちたくない気分だったので、睡眠薬の入った袋は上着のポケットに入れる。煙草を吸うというのは借金をするようなものだ。いつの日かこうやってツケを払わされることになる。

 「依存というのは弱い人間のすることです」と主張するテレビの中の誰かを見るたびに、僕はこう言ってやりたくなった。

 人は強くなきゃいけないのか? あんたはいったい、どれくらい強い人間なんだ?


 常設展にはあまり人がいなかったので、ゆっくりと時間をかけて絵を見ることができた。注目を集めるのはいつだって「特別展」のほうだ。

 死にたくなったら美術館へ来るといい。実際に死にたくはなくても、死んだほうがマシだと思うくらい現実に嫌気が差すことは誰にでもあるだろう。今の僕はそれほど切実じゃない。ただいろんなことが思うようにいかなくて、自分が生きたくもない自分を生きてきたせいで疲れてしまっただけだ。

 美しいものに触れているあいだは、何もかもを忘れることができた。芸術は僕の前にある世界をバラバラに分解して、違う角度から眺めさせてくれる。それは心を癒し、もう一度新しい世界を築き上げてみようという気にさせてくれるのだ。


 僕はふと、いつかのバレンタインに煙草を一箱くれた女の子のことを思い出した。ベランダでそれを一緒に吸っているあいだ、彼女はひと言も声を発しようとしなかった。

 しばらく経って「大丈夫?」と聞いたら、「うん、ちょっと死にたい気分なだけ」とその女の子はつぶやいた。僕は何を言ってあげたらいいのか、全く見当もつかなかった。

 それで神経がやられていたのか、帰り道の通行人にさえ苛立ちを感じていた自分を覚えている。明かりの乏しい商店街で僕の足音に気づいたサラリーマンが振り返った時、何かを邪魔されたかのように不信な視線を投げかけるその顔をわけもなく殴ってやりたくなったのだ。


 僕はあのとき、彼女を美術館へ連れていってあげられたらよかったのかもしれない。彼女は今も無事に生きている。どこか遠くの場所で僕の知らない誰かと結婚した報告がある日、スマートフォンの無機質な画面の上にぽつりと浮かんできた。

 陰気な小説の文庫本とひと月分の睡眠薬が入った両側のポケットに手を突っ込んだまま、僕は人気のない美術館の片隅でそんな記憶に思いを馳せていた。


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 帰りの電車で窓の向こうの闇に見入りながらD.A.N.の「Navy」を聴いていたら、まだなんとかなるんじゃないかと少しだけ思えた。駅の階段を上り終えて暗くなり始めた街に戻ってくると、踏み出した足元の歩道はすでに新しい姿へと変えられていた。

 甘いものはいらない。排気ガスに汚染された都会の冷たい空気を思いきり吸い込んでから、まだ生き永らえている退屈な人生に向かって僕は白い息を吐いた。


 アパートの部屋に帰ったら、ビールを飲みながら白黒のB級映画でも観よう。そうすれば嫌でもまた、明日がやって来るのだから。



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