紫の発見 5/5
ススキを巡る思い出のおよそ一年後に、私は会社を辞めた。実のところ、当時は仕事を続けることに息苦しさを感じ続けていた。何か大きな問題があったわけではないし、職場での人間関係も良好だった。私はただ、そこに留まり続ける未来を描くことができなかったのだ。
それは例えるなら、自分に合わない水槽の中で生きている魚のようだった。そこで泳ぐことはできるけれども、あちこちぶつかってしまってのびのびと自由に振る舞えない。誰が良いでも悪いでもなく、その水槽の中で泳ぎ続けることには和らげようのない息苦しさがあった。
そんな毎日の合間にあのススキと巡り合えたことは、私にとってちょっとした救いのようなものだったのかもしれない。あの光景は、息が詰まりそうになる私を世界に留めてくれる錨だったのかもしれない。
目の前の現実に翻弄されながらも、あるべき場所に自分を戻してくれるアンカー。それはきっとどんな人にもあって、本当に些細なことでいいのだと思う。
はっきりと意味がわかるような体験や情景でなくてもいい。意味がありそうなことに価値を見出しがちな世の中だけれど、時には日常の、何でもない一瞬が自分らしさを滲み出させてくれるはずなのだから。
たとえば、今から十年くらい前。私はその頃勤めていた会社で、心が折れそうになりながら働いていた。その日は営業で地方の取引先をまわっていて、人を見下すような態度の担当者に辟易しながら車を走らせていた。
ため息をつきながら木々の連なった道を運転していた時。角を曲がると、広く整地された空間が不意に眼前に現れた。区画整備のためか土が剥き出しになった場所へ、太陽の光がまんべんなく降り注がれていた。突然開けた空の青と、何もない更地の向こうに並んでいた樹木の緑。特別な景色でもなかったけれど、目に映った色たちは私の痛みをそっと癒してくれた。
私はその瞬間、空を見上げようと思って見上げたのではなかった。綺麗なものでも見て気持ちを切り替えようと思ったわけではなく、向こうから視界に入り込んできたのだ。あくまでも偶然のことで、だからこそ自分という存在に贈られた一つのギフトみたいに感じられた。
それぐらいささやかな一瞬でもいい。ふとした時に自分の感情が目を覚ますことで、人はその人らしくいられるのだと思うから。
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ピアノの演奏が終わり、部屋は再び静寂に包まれる。窓の外へ目を向けると、沈んでいく夕日が名残り惜しそうな色で街の上に光を放っている。
人が死ぬ時に持っていけるのは記憶だけだ。自分の経験したことと、そこにあったいくつもの感情。そして私には、忘れられない光景がいくつもある。それらはひっそりと、頭や心の片隅で息づいている。
世の中にとっては、あってもなくてもいいものかもしれない。けれども私は、少なくとも自分にとってかけがえのない景色たちを愛おしく思う。何を「美しい」と感じるのか、育まれた感性を思い出させてくれる存在だからこそ。時には錨となって世界と私をつなぎとめてくれる、大切な情景だからこそ。
今ここに、私という命があって。生きている、いや生かされている中で。美しさというレンズ越しに見える日々の断片が、積み重なっていく。数々のシーンやカットが何を主張するでもなく、ただ私の内側にある。
いつだってそばにいてくれて。わずかな、けれども確かな熱を、発し続けてくれる。
記憶の深く深く埋もれたところに光を届けてくれる作品を作り、
ここに紹介することを快諾してくれた
アーティスト齊木悠太さんに感謝を込めて
ーY
2022年1月20日
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