紫の発見 3/5
そして今、私は自分の部屋に飾られた二つの額縁を正面から見つめている。椅子に背をもたせかけて、温かいコーヒーの入ったマグカップを手にとりながら。丁寧に焙煎された豆を挽いたばかりの落ち着く香りと、休日の午後にしか差し込まない穏やかな西日がマンションの一室を満たしている。
改めて考えてみると、紫という色を普段から好んでいるわけではなかった。けれども目の前にある作品が映し出す、発熱しているかのようなその色は私の胸を不思議に温めてくれる。それは数えきれないほど、ことあるごとに現像されたあの日の景色を思い起こさせる。
あの光景は、私にとって何であったのか。一つの情景がどうして、何回も浮かんでは消えていくように思い出されたのか。その答えは出ていないし、あえて出す必要もないような気がする。正解みたいなものを導き出したいわけではないのだ。
それでも、あのススキは自分にとって大切な何かの象徴なのだと思う。私はただ、そのことに思いを巡らせてみたかった。立ち止まって振り向くことのなかった記憶の波間を、ゆったりと漂ってみたかったのだ。
テーブルの上にあったスピーカーの電源を入れて、上着のポケットから取り出したスマートフォンと接続させる。グレン・グールドが演奏する、バッハのゴールドベルク変奏曲。私はその音楽の、どこか懐かしさを覚える内省的な旋律に耳を傾け始める。
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人が生きていくうえで、強烈な印象だけがいつも重要なわけではないのだと思う。時にはほんの些細な一瞬の出来事が心を動かしたり、いつまで経っても色褪せない記憶として残っていったりするのだ。考えてみれば、道端に生えていたススキなんて誰もが目にとめるほど見栄えするものでもない。もともとそれほど華やかではない、どちらかというと地味な存在なのだから。
けれどもあの時、私の脳裏にはそんな前提など微塵もなかった。私はただ、美しいとしか思わなかった。「こんな、なんでもないものが」という認識すらなかった。評価も先入観も、何もかも遥か遠くへ行ってしまったかのようにその美しさを感じとることができたのだ。
こうして振り返ってみると、あの光景が自分にとって大事な感覚を何度も取り戻させてくれていたのだと気づく。何かに触れた時、それを「美しい」と思うかどうか。あの瞬間を思い返すことが、連続する日々の狭間で押し潰されそうになる私の感性を掘り出し、守ろうとしてきてくれたのかもしれない。
忙しく、無機的にもなりがちな日常の中で、自分らしさを見失わないように。美しいと感じた景色に思いを馳せることで、厳しさを伴う現実に揉まれながらも心のバランスを整えられるように。
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