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イースター・ボーイ

 寒い冬の日に吐いた白い息がどこか人を落ち着かせるのは、自分の一部が世界と一体になっていく瞬間を目の当たりにするからなのかもしれない。

 僕はそんなことを考えながら、引っ越したばかりの部屋のベランダで煙草の煙を吐き出している。これが記念すべき最初の一本だ。明かりを灯した窓が散らばる窮屈なビルの群れから、小さく切り取られた誰かの生活が垣間見える。

 新しい街の夜をそんなふうに描写しながら、その一員となった証を残すかのように僕は息を吸って、吐いた。


 これまでの人生における全てのものごとが、それで良かったのだと思える一日がある。何もかも、間違ってなんかいなかったのだと。間違っていたことですら、本当は間違ってなどいなかったのかもしれないと。
 それほど頻繁に訪れる一日ではない。年に数回、特別な日やなんでもない日にふとその啓示みたいなものはやって来る。
 たとえば今、明日には去るであろう故郷の景色を眺めているこの瞬間のように。

 何はともあれ、およそ一年前に乗ったはずのバスで、おそらくはその日と同じ座席に腰かけながら僕はそんなふうに思いを巡らせていた。外では雨が降っていて、午後六時の淡い闇が街灯の光を浮かび上がらせている。窓にへばりついた雨粒を通して見える一年ぶりの風景は、ぼんやりとした輪郭のまま僕の後ろへと過ぎ去っていく。

 思い返せば、どこか特別な一年だった。
 生まれて初めて、納得のいく長編をひとつ仕上げた。仕事としていくつかの物語を書いた。長短合わせて二十三の小説と、四編の詩を書きあげた。

 出会いと、同じかそれ以上の別れがあった。繋がっては分離し、分断された。それによって傷つき、傷つけた。親指一本で人と人との関係が無かったことにされる時代の片隅で。

 きっとこれからも、物語というものを書き続けるだろう。求められようとなかろうと、それらは僕の内側に蓄積していくからだ。
 現実というレンズのみを通じて日々目の前に流れる光景を捉えてみても、そこに映りきらないものがあまりに多く感じられるからだ。僕はその、視覚からこぼれ落ちてしまった何かを言葉にしていたい。たとえ不完全であっても、それを試してみたい。
 夏の夜にあてもなく歩いたこと。通り過ぎる車が、秋の黄色い葉を宙に舞い上がらせていたこと。雪解けを告げる四月の雨に目をやりながら、住み慣れた家で最後の一本を吸ったこと。

 僕の前には、川が横たわっている。どこへ辿り着くかはわからないけれど、少なくとも新しい場所に導いてくれるはずの、穏やかな水の流れが。
 だからただ、今はただ、自分という存在を溶かしていたい。今度こそ世界の一部として、共に呼吸ができるように。

 意味なんて無い。道端の雑草に美しさを見出せたなら、それだけで充分なのかもしれない。

 生きるということは。

ー素面のくせに「幸せだ」なんて言うやつは、とんでもない嘘つき野郎だー
  ウィリアム・S・バロウズ

 僕は単なる酔っ払いだ、もちろん。

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