格と武、能力も価値も文化から違ってる話②
仕事柄、武術や格闘技が好きな人らを指導することも昔から多いんだが。
詳しそうな人だな~と思う人でも、意外と突っ込んだ話をしてみると、わりと大雑把にしか捉えてなかったりすることは多い。
例えば、武術、武道、格闘技、スポーツ。
この4つの言葉を同じものだと認識してる人が意外にも多いことに驚いたことがある。
相手が頭の悪い人なら別に驚かないんだけど、まともで熱心な人の中にも、そこらへんの違いは気にしてない人がわりといるみたいなことに、僕は驚いた。
原因は、追究と興味、関心。
追究するほどに興味、関心があるかどうか。
どこまで追究できる興味、関心があるのか。
認識能力が向上するかどうかは、まずそこからはじまる。
“認識能力”というのは、一番簡単に言うなら
『“差(違い)”がわかる/わからない』
ということ。初歩として、まずは
『言葉への認識』
というのがあって、言葉の違いから考えることをスタートにすると入りやすい。
言葉の違いは認識の違いという話。
今回は武道、武術と格闘技、競技における文化の違いの、まぁ入門編くらいの話。
まず“実戦”という言葉について考えるとわかりやすい。
僕は高校時代、武術の錬究の一環として、
『揉合系』
(組み技、投げ技、関節技、寝技など)
の錬究(鍛錬、錬磨、研究、追究など)のために柔道部に所属してた。
別に柔道をやるつもりはなく、柔道などを代表とする『揉合系』の相手に対応する能力を形成するために。
夏には、部恒例の他校との合宿ってのがあったんだけど。
大学生や他校が20校くらい数日間、合同で稽古するっていう、よくある部活の合同合宿。
他校の柔道家の中には、格闘技に精通してる人もいれば、スポーツとして単に部活のJUDOをやってるだけの人もいるし、色んな柔道観を持った人らがいて。
色んな価値観の人らとの交流は、なかなか自分の見識を広げ深めるのに勉強になった。
僕としては当然だと思ってたことが、実は当然ではないということもたくさん思い識(し)った。
普段から僕は、例えば乱取(スパーリング)においても、
『“実戦”を想定した錬究』
として取り組んでたんだが。
それは柔道が“武道”や“武術”だと捉えているからであって。
つまり、
打撃や武器に対しても対応できる備えはしつつも、“今は”『揉合系』の技術を深めるための稽古なので、“たまたま”打撃や武器での攻撃が来てはいない状況に限定設定しての稽古
という感覚。
『揉合系』技術を深めるために、
“今はたまたま”の設定
の中で稽古してるのであって、
“それが全て”ではない
(打撃などの他の状況を一切排除した中での対応さえ出来ればそれだけで良い、というワケではない)
という感覚。
なので、打撃や暗器(隠し武器)に無警戒な心、態勢、間合いなどにはならないようにするし、ルール内だけで通用するようなルール悪用の技を使用するような発想もない。
常に“実戦”で自分が適応するための準備としての稽古をしてた。
そんな僕のスタンスに共感する、他校の格闘技や武道に詳しい柔道家ら何人かとは意気投合し、合宿でもそーゆー稽古のスタンスは変えなかった。
『別に柔道ルールで、大会で、試合で勝つことを最優先目的とはしていない』
『“実戦”で適応するため、強くなるため、やられちゃわないようにするために稽古をする』
という、よくある武道的なスタンス。
柔道ルールにのみ適応するような“悪癖”を自分の中に作っちゃうと、「いざ」というときにそれが出てしまい、その「いざ」に適応できなくなってしまう。
だから、仮に寝技ならば、相手の馬乗り位置(マウントポジション)につけば、畳をパンチしたり軽く拳で脇に触ったりして、
「今のここで殴れますよ」
の“確かめ”をやったり、相手に殴られたり蹴られたりするようなポジションは取られないように稽古する。
そんな僕らの感覚からすれば、柔道やレスリングなんかでよく使われる“亀の姿勢”や“抑え込み○秒”なんてのは論外。
ルールの中だけ用の特殊技は必要とはしてなくて、
「そんなのは“実戦”ではボコボコやん」
というのが僕らの共通認識だったワケで。
「追撃はされない」という前提でいるのは、ルールと審判ありきの、競技的な考え方。
そういった
「追い詰められたら誰か(何か)に必ず救ってもらえる」
という“神頼み”に近い行動習性を築いていては武道、武術の稽古としては真逆となる。
むしろ武道、武術の稽古というのは、追い詰められたときにこそ、どうにか打開策を探し何とか切り抜けられるようになるための稽古。
または、反対側としては、
やられたフリをしてこちらの油断を誘う相手にも油断しない為の稽古
という側面もある。
例えば、武道的には、立ち技からであれ、相手が地に踞(うずくま)れば、カラテ試合のような下段突きの寸止めや、畳への踏みつけなどで“確かめ”をしたりする。
柔道部でも僕はやってた。
残心(ざんしん)というやつ。
追撃も出来るし反撃に対して油断しない、ということ。
相手が戦意不能のポーズを示せば「終わり」で、油断しても良い
というのは競技的な考え方。
武道、武術には明確な「始まり」「終わり」はなく、ずっと日常/人生の中における事柄の一つでしかない。
その習慣の練習でもある。
この下段突きをはじめとした『残心(ざんしん)』というやつは、今や形骸化して単なる儀式的なポーズになってる人が多いけど、そうではなくホントに『残心』でなきゃいけない。
技が決まったと思った次の瞬間の油断が一番良くないので、ちゃんと
『心を切らさないで残しておく』
というのが本来の『残心』の意味で。
言葉と意味を、頭でいくら知っていても、その練習や稽古を実際にやれてなければ、その意味とはならない。
合宿初日から、他校の、格闘技や武道好きな彼らから、僕は一目を置かれてた。
僕が馬乗り位置で畳を殴ったりするんだが。
まぁそうすると、大して何も考えてない
「JUDOはスポーツでしょ」派
の人は
「アイツなにやってるん??w」
と、心底、不思議そうに、少しバカにしつつも、隣にいる人に実際に訊いてたよねww
ただ、その訊かれた相手が、僕と意気投合した仲間の内の1人だったんで、逆に、やれやれ、とそいつを嗜(たしな)めるように解説してくれてたけど。
当時、総合格闘技の寝技技術の修得は必須だと思ってたんで、寝技に関して合宿内で僕は強かった(技術があった)。
大学生であれ、教師であれ誰にも負けずに圧勝するくらいには。
まぁこれはその数年後の話だけど、高校で県3位の経歴の柔道家と寝技乱取をやってみたら、久しぶりに寝技やるわ~の僕が圧勝したくらいには技術があった。
立技に重きを置く柔道家に対して、高専柔道家やブラジリアン柔術家が寝技では優位になりやすいのと、理由は同じだと思う。
寝技は工夫した練習の量が実力となり、その実力差が、まんま表れる。
もちろん、トップクラスの本気の柔道家たちともなれば、寝技においても圧倒的に強いことはよく識(し)ってるんだが。
僕が相手したのは、所詮は部活レヴェルの柔道家たちだったので。。。
で、稽古と“実戦”は違うって話の本題なんだが。
“本番”を想定した稽古をしてる人は実は多くないって現実がある。
厳密には“本番”を想定しない稽古は「稽古」とは呼ばないんだが、まぁそーゆー“偽装行為”というものは世に横行してる。
よく聞く言葉で
「練習では強いけど試合になるとチカラを発揮できないタイプだよね」
「チャンピオンは試合では強いんだけど普段の練習だとケッコー弱くて負けてるよ」
などがあるが、それらは現象として正しい。
理論通りの現象だから。
チャンピオンになるような人は練習の時間は、ちゃんと練習のための時間を過ごしてる。
逆に“才能のない”人は練習の時間に、本番のための練習をしていない。
「練習」とは、言葉の通り“本番”を想定したものである必要があって。
もしその“本番”が「公式試合」なのであれば、そこで勝つ為に、「練習」では色々なやり方を試して、工夫して、試行錯誤を繰り返してゆく時間を過ごす必要がある。
その練習や稽古の中において起こる「強い」とか「勝った」とか、そこにばかり注目してる人は“本番”の設定を、「試合」に向けて設定していない。
つまり練習のフリをした“偽装行為”でしかない。
「練習」では、負け方や勝ち方を錬究しまくって、色々なパターンを識(し)っておいて、いざ“本番”である「公式試合」で勝てるようにしておくことが「強さ」であり、その目的なのだから。
もちろん、武道、武術家においての“本番”は「公式試合」ではないので、「公式試合」であれ“本番”ではない。
先日書いた僕と某世界チャンピオンとのマススパーもそれ。
僕もチャンピオンもそこでの勝負は一切していない。
だから形式上の“負け”みたいなものは平気でやれる。
それを“負け”だと捉えてないから。
とはいえ、現役の世界王者が、自分が主役のイベントにおいて、自分の競技ルールに近いバトル形式で、しかもみんなが観てる前でもそれを平気でやれるってのは、ホントに驚くべきスゴいこと。
そこらへんの「見栄」がここまで一切ないってのは、さすがチャンピオンになる人は違うな~と、僕は心底リスペクトした。
チャンピオンがみんなそうではないことを、僕は色々な選手との交流の経験があって、よく知ってるので。。。
さて、話を戻す。
【どこを“本番”と設定してるか?】ということ。
その合宿の合同稽古においても“偽装家”はたくさんいた。
マススパーのような寝技の乱取があって、僕にとってはそれは
『“実戦”を想定した“試合(技術の試し合い)”』
だったワケで。
“実戦”とはもちろん、武術や武道の
『いつ、どんなカタチで起こるか起こらないかもわからない、不測の事態』
のことなので、
『そこにおいて対応できる選択肢を増やしておくこと』
が練習、稽古のテーマ。
あくまで、技術の練習稽古なので、乱取とはいえ、そこでの
「目先の勝負」に勝つため
の、力技というか
「何とか相手に技をかければ良い」
というような考え方に基づく強引な技のかけ方などは一切する意味がなかった。しなかった。するつもりもなかった。
僕はね。。。
だけど、相手は違ったんだよね。
ある、他校のスポーツJUDO家との寝技乱取において、それは起こった。
僕の完璧な誘導やポジション取り、技の入りで、あとは力を込めて極めにいけば完璧に“極まる”というカタチになることが何度もあった。
そこは実力差がハッキリとあったので。
だけど、相手は“偽装行為”が平気なタイプ。
思考停止で競技JUDOやってるだけのタイプ。
技が“極まる”寸前になって(というか本来なら極まってるよね、と経験者ならわかるくらいのところで)、こっちが
「相手を壊さない為に“抜いてる”」
のを利用(悪用)した力業での技の回避ばかりをやってくる。
それをやってきた上で、ドヤ顔というか、勝ち誇ったように「お前の技なんか簡単に返せてる」感をあまりに出してくるから、当時、僕も高校生のガキだったんでカチンときて、さすがに言った。
「“実戦”なら極まってるで」
と。すると、彼は
「いや“実戦”なら“待て”かかってるって」
と言い返してきた。
ん???
“実戦”で“待て”????
あ!!!
そこで初めて気付いた。
そう、“実戦”の言葉の意味が、僕と彼では違うんだ!!!
と。
このやり取り自体は、単なるガキ同士の口喧嘩なんで、とるに足らないものだけど、僕にとっては大きな“学び”だった。
彼における“実戦”はスポーツ競技としての試合のことを指す。
僕にとっては武道、武術の考え方(当時は格闘技寄りだったけど)が根底にあって。
あ、“本番”の想定が僕と彼とでは違うんだ!
ということに、そこで改めて気付いた。
そうか、武道武術の感覚でやってる人ばっかぢゃないんだな~と。
そこで改めて、理解しなおした。
で、まぁそういうやり取りもありつつ。。。
とりあえず彼とはバチバチだったんで、次にこういうやり取りになった。
「ホンマやったら極まってるで。オレが力加減してるのを利用してムリに外してくるけど」
と言ったのに対して、
「いや極まってないやん」
と言い返してくるんで、
「んな次、ホンマに加減せんと極めて良い?ケガすんで」
と忠告したら、嘲笑しながら
「ええよ(笑)お前がホンマに極められるんやったらな」
と余裕ぶっこいてきたのを見て、もう一つの大きな気付き。
そこでも、また一つ僕はお利口さんになった。
なるほど、コイツ、本気で返せてるつもりでいたんだ!
と。
もちろん、そのあとは、ソッコー“秒”でホントに関節を極めて泣かしてやったんだが。
腕を押さえて踞(うずくま)って泣いてたね~。
当たり前だよ、そんな強引なハズし方しよーとしてたら、こっちが抜かずにホントに極めにいけば、力の反動でガチッと痛める極まり方しちゃうに決まってんぢゃんか。
まぁ可哀想なことをしたけど、何度か忠告してたし自業自得なんで仕方ないよな、と当時は自分に言い聞かせつつ。
いま思うと、僕自身がガキ過ぎて、ホントに申し訳ない気持ちなんだが。
この“学び”はケッコー大きかった。
人によって価値観とか認識は大きく違うんだなっていう。
それを理解した出来事の一つなので、いまでもハッキリ覚えてる。
あれから何億年も時は経ったけど、僕らが指導者として知って欲しいのは“偽装行為”は、どんな競技であれ危険行為となりやすいよ、ということ。
「練習」における“偽装行為”はとっても危険。
“偽装行為”の人は「練習がヘタ」なんだけど、自分が単に上達しないだけぢゃない。
対人競技で相手がいた場合、まず「練習」で相手をケガさせやすいということ。
そして、逆に相手がケガしない場合は自分がケガをしやすくなるということ。
他の競技でも、大人になってから、そーゆーのはよく観てる。
プロ選手でも、そんなんやってる人はケッコーいる。
今回の例では、柔道の寝技の関節技で、最初は僕が“抜いて”たから相手はケガをしなかった。
でも、僕の方はというと、強引なハズされ方の動きを何度もされて、ケッコー危ない思いもしてた。
「練習が上手」な人は「練習」する上で、適切な運動をするのでフツーはケガをしにくいけど。
対人練習で、こーゆー“偽装家”の人が相手にいると、むしろケガをさせられやすくなる。
ろくな練習も出来ないしケガさせられる危険性が増えるだけっていう。
これは身体が強いとか弱いとかではなく、心の問題でもなく、構造的にそうなるよという問題。
では、それをされないように、今回のように相手に合わせてマジで“抜かず”にいくと、それは“本番”のような「勝負」にしか、ならなくなっちゃうので。
そうなると、相手にその反動が返ってっちゃって、相手が痛める危険性が出てくる。
これは「練習」ではない。
「練習」というのは安全な上達行為でなきゃいけない。
「上達や安全を差し置いてでも、何とか勝ち残ることが優先なんだ」
というマインドは“本番”でしかない。
「練習」しないで迎える“本番”なんてものはケガの元でしかないのは当然の論理。
これが自然に出来る人を“才能”のある人と呼び、出来ない人が“才能”のない人と呼ばれることが多くあるんだが。
僕ら指導者からすれば、これを“才能”とするならば、克服できる“才能”というカテゴリーになる。
ということは、この“才能”のない人は、「練習」する努力を単にサボってるだけだという見方もできるワケで。
そこを理解し、練習相手とお互いに上達できる取り組みを目指していただきたいと指導者的には思う。