短編小説「穴男」
僕は殺されて埋められた。埋め方が浅かったので、僕のからだが朽ちる頃、地面が陥没した。
それ以来、僕は穴男。
穴男のはなしはいつの間にか町の噂になっていた。
男の子がやって来て、穴男にお願いした。
サッカーの試合で選手に選ばれますように。
いいともいいとも。
翌々日、おともだちが車に轢き殺された。
それで男の子は選手になれた。
女の子がやって来て、穴男にお願いした。
大好きな男の子とお付き合いできますように。
いいともいいとも。
女の子は男の子と付き合うことができたし、男の子はその娘のはだかの写真を友達に売りさばいて、ちょっとしたお小遣いを手に入れた。
男の子がやってきた。
死んだお母さんが生き返りますように。
いいともいいとも。
お母さんは生き返りました。
死んだお母さんがやって来て、穴男にお願いした。
死んだ子どもが生き返りますように。
いいともいいとも。
死んだ子どもが生き返った。
犬がやって来て穴男にお願いした。
わんわんわわん
いいともいいとも。
犬はお空に昇ってお星になりました。
空から雨が降ってきて穴男にお願いした。
ざあざあざざあ
いいともいいとも
翌日は大洪水。
僕は友人にそんな話をした。
「全くくだらない。」
と彼は言った。
「残酷だし、ナンセンスだ。ロマンの欠片もないし。そもそも機構が分からないじゃないか。物語が破綻しているよ。」
「そうかな。」僕は言った。
「そうとも。」彼は言った。
「もし、君なら何を願うだろうか。」
僕は尋ねた。
その晩、僕たちは夜通し話をして、世界は朝になろうとしていた。
「僕なら?」
彼のシルエットが薄明の中の青い影となっていた。影は次第に陰影に分かれて、彼の彫りの深い相貌を浮かび上がらせる。
真っ青な顔だ。まるで骨のような。僕は彼の顔を見つめる。
「僕なら」
と彼は呟いた。そして黙った。彼は思慮の奥底に沈んでいた。何事か、彼は深く考えていた。
彼の眉間に深い皺が寄っていた。沈痛な面持ちだった。
「僕もまた生き返らせたい人がいる。」
彼は迷いながらも、そう言った。一言ずつ丁寧に言葉を選びながら。薄明の静寂にまるで遠慮をしたかのような囁き声だった。
「誰だい?」
僕は尋ねた。
風が吹いて辺りの木々がざわついた。
少しだけ、僕たちは木々の音に気を逸らして、それから再び見つめ合った。
「君だ。」
彼は言った。
彼は、黒い森の中に立っていた。
森は深く侘しい。
彼が薄明に浮かび上がるように、木々もまた輪郭を浮かび上がらせていた。
森全体を覆う葉擦れが、聞こえた。
「もし、それを願ったら」
僕は言った。
「君は死ぬかもしれない」
「良いさ」
と彼は言った。陥没した穴の、即ち僕の、
穴男の窪みの「へり」に立ちながら。
「願い事って、そう云うものだろう?」
薄明の彼誰時に生と死の境界は曖昧だ。
rrrrrrrrrr
町が洪水で水浸しになったので、それ以降人々の移動手段は舟になった。
かつての道路を小舟が行き交う。
人々は長い櫂を使って水底を突いて進む。
町は晴天が続いていた。
冬の寒気を和らげる日差しの中で人々は笑顔で挨拶を交わしていた。
その水路を見下ろすビルディングにヨアンは住んでいる。ビルディングは水路が照り返す水紋の、柔らかな光を纏っていた。
ヨアンの家は二階がパン屋になっており、三階はパン工房。
四階が倉庫。
五階が住居。
六階は星を見るための天文台になっている。
ヨアンは此処で死んだ母親と二人で暮らしている。
ヨアンはいつもパンを焼いて、それを売って暮らしている。客は小舟に乗って彼のパンを買いに来る。町を満たした湿度で
パンが駄目になってしまわないように、ヨアンのパンは固く焼き上げられている。
「ロックのようだ」
と人々は喜んだ。
ヨアンは日が暮れると店を閉めて、母親と夕食を食べる。母親は死んでいるので土とか落ち葉とかなんかそういうものを食べる。
ヨアンはパンとシチューを食べる。
食事を終えると彼は母親を寝かしつけて、それから六階の天文台に上がって星を見て過ごす。
星星を見ていると時折、大きく光って、そして消える星がある。
ああ、あれは。命を終えて、あの星はこのしゅんかんに消滅したのだ。
ヨアンは手を組んで祈った。
どうか明日も世界が平和でありますように。
ヨアンの目の前に開いた穴から穴男が覗いた。
「願いを叶えよう」
rrrrrrrr
パン屋のヨアンの葬儀は粛々と執り行われて、人々はヨアンの棺を乗せた船が岸辺を離れるのを見送った。
彼の母親は死人であったので、市役所は引き取り手を探したが、誰も死人を引き取ろうとする者はいなかった。
ヨアンの母親は、彼の六階建ての住居とともに遺棄された。
数日、住居の五階から死人の歌が聞こえていたが、その声はやがて途切れ途切れに細くなり、遂に途絶えた。
ヨアンの家には代わりにたくさんの鳥たちが訪れるようになった。
鳥たちは部屋の中に木々の種を落とした。種は発芽し、部屋の片隅に根を張って、数年で巨木に成長した。
秋になって椎の木にどんぐりが生った。床の上にどんぐりが落ちて、二匹の栗鼠がそれをじゃれながら取り合った。どんぐりを拾った栗鼠は朽ちて土くれとなった床に穴を掘ってそれを埋めた。
その夜、町では黒い頭巾を被った狂信者たちが松明を持って集まった。
「穴男を殺せ」
狂信者が叫んだ。
「そうだ」
人々は叫んだ。
「穴男を殺せ」
いいともいいとも。
穴男が返事をした。
短編小説「穴男」村崎懐炉