短編小説「クレオパトラの夢」
ピアノはなんと言ってもバド・パウエルだよ。
と彼が言った。聞きかじりのジャズ薀蓄を語りたいらしい。ピアノが弾けない人間がピアノのなんたるかを語るなんて滑稽だ。
薄っぺらい知識を吐きながらへらへらと笑う彼。見ているだけで腹が立つわ。だってもっとバド・パウエルに詳しい人間は幾らでもいるし、そもそもあたしだってバド・パウエルの名前くらいは知っている。
とにかくそんな有識の人たちを差し置いて偉そうに講釈しようとするのが許せない。
彼はあたしのスマホに無理やりバド・パウエルのピアノをダウンロードした。
Cleopatra's dreamと英字でタイトルが表示された。Cleopatra…クレオパトラね。クレオパトラの夢。
彼はイヤホンを耳に当ててダウンロードが出来ているか確認した。その後、聴いてみろ、と頻りに勧める。あんまり煩いのであたしはイヤホンを着けて再生ボタンを押した。
彼の操作が悪かったのか、大音量の音源があたしの鼓膜をつんざく。
あたしは小さく悲鳴を上げてイヤホンを外した。外れたイヤホンから音の残滓が漏れている。
彼は慌ててスマホに手を伸ばした。
途端にカップをひっくり返して、珈琲は白いテーブルの上に広がった。
彼が射精の後のような情けない声を出した。
イヤホンから漏れる音にも、
広がる珈琲にも
彼にも
全てに
嫌気がさした。
「いい加減にしてよ」
嫌悪感が極まったあたしはつい大きな声を出した。気分が悪くて残っているケーキを瞬時に食べ、珈琲を一息に飲んで、スマホを回収した。ついでにグーで殴ってやろうかと思ったけど止めた。そのまま踵を返してその場を後にした。
彼は呆気に取られていたけど知ったことではないわ。
本当に今日は最低な一日。
駅の券売機に並ぼうとしたら直前で割り込まれた。相撲取りかと思ったら相撲取りみたいな女だった。と、思ったら私服の相撲取りだった。
電車に乗ったら目の前の少女の読む雑誌が派手派手しすぎて目に眩しい。
あと雑誌めくる度にこっちに手が当たる。
窓の外はなんというかはっきりしない天気で気持ちが悪い。
電車を降りて駅前のコンビニの店員の滑舌が悪い。
なにかの汚臭がする。
人ゴミがうるさい。
歩いてるとみんながぶつかってくる。
よろけて足を挫いた。
足の痛むあたしを余所にみんな楽しそうにしている。
全く苛々するわ。
あたし、機嫌が悪いのよ。
見てわからないの?
もっとレディに気を遣ってよ。
あたしはうんざりして、怒りに任せて歩くうちに何をどうしたものか川に出た。
今日は買い物したりスイーツを食べたりする予定だったのに、本当に最低よ。
苛々しながら今日の悲惨な出来事ダイジェストが脳内再生される。
アホ面。ドヤ顔。浅薄。
Cleopatra。
珈琲。
クレオパトラも珈琲みたいな褐色の肌だったのかしら。漫画でみたクレオパトラの肌は白かったけれど。もし人種的に肌が白かったとしてもエジプトに住んでるんだから真っ白ってことはないわよね。あたしとどっちが黒いかしら。ああ、白い肌に生まれたかった。
街中のブティックでショッピングをしている筈のあたしは、何故か川原の草っぱらに座り込んでぼんやりしている。
この状況に脱力してあたしは頭を膝に落とした。
泣きたいわ。
ひとりきりで。
無性に泣きたい。
よし。
泣こう。
今日は泣いても良い気がする。
だってあたし可哀相だもの。
彼氏のアホ面を振り返る。ああ、きたきた。きたわ。あまりに情けなくて効果的にメソメソがきた。あたしの奥底から延びる涙腺にジワジワくる。
涙がこぼれて喉奥から嗚咽が漏れようとした。
その時。
膝に伏したあたしの横をなにか小さなものが風のように走り去った。
その正体は顔を上げずともすぐに知れた。
乾電池みたいな元気さで飛び回る声が聞こえてきたから。
少年たちが五、六人。彼らは川原で、あたしのセンチメンタルなんてお構いなしに遊び始めたのだ。走ったりお互いに突きあったり、何が楽しいのか分からない遊びをしている。
こんなにも。
こんなにも、
何もかもが、
あたしの思い通りにはならない。
今日は何一つあたしの願いは叶わない。
再び不機嫌が頭をもたげてきたが、何とか耐えた。
そう。ここは川原。そして相手は子どもたち。
落ち着いて、あたし。
川原で誰が騒ごうともあたしが怒る筋合いではないわ。
そう、怒りだしたら単なる変な人よ。
あたしが怒るのは変。
変。
その時。
仕方ないと割り切ったあたしに、上手に言えないけれど電撃的な何かがドーンと落ちた。上手に言えないけれどね、ドーンってきたの。
あたし、いま、何かが吹っ切れた。
だって、そうよ。
今日は一日、あたしの思い通りになるものなんて一つもなかった。でも、よく考えたらそれは当たり前のことだわ。よく考えたら世界にあたしの思い通りになるものなんて何一つない。
思い通りにならなくて当然なのに、あたしは何に腹を立ててたんだろう。
それに思い通りにならないのはあたしだって同じだわ。あたしだって誰の思い通りにならないし、誰の思い通りになる必要だってないのよ。
あたし、誰に気兼ねすることなく、なんだってできるんだわ。
例えばあたしが子どもたちに混じり、川に向かって石を投げたらいけないなんて、そんなルールはないわ。そうでしょ?
ねえ?君たち。
それ、どうやんの?
こんな声掛けたら不審者かしら?
でもいいわよね。
だってあたし、不審者じゃないし。
子どもたちは見知らぬ大人に対してキラキラした目で一生懸命説明してくれた。
代る代る自分たちで石を投げて実演してみせた。
こう?
あたしも真似してみた。
子どもたちが平たい石をあちこちから持ってきてくれた。
なんか白雪姫を歓待する七人の小人みたいだわ。
その時、浮かんだ白雪姫は何故か白いシースドレスを纏った褐色のクレオパトラだった。クレオパトラと七人の小人。クレオパトラの顔はあたしだ。
うん、悪くないわ。
なんというか、妄想だって自由だもの。
試しにあたしは平たい石を一つ取って投げてみた。
野球選手みたいにサイドスローで投げるんですって。
石はすぐそこにポチャンと落ちて沈んだ。
子どもたちの指導に熱が入る。
もっと力入れないと、ですって。
でもさあ、全力でそんな投球フォームをすると、スカート捲れてパンツ見えちゃうじゃないの。
子どもたちは一生懸命過ぎてそんなことまで気が回らないのね。
この子たちは水切りのことしか考えてない。
どうしたら石が対岸に届くか、それしか考えてない。
あたしのパンツとか別にどうでも良いのよ。
そりゃそうよね。
なんてったって全力なんだもの。
あたしは大きく振りかぶって
石を投げた。
そう、それこそ全身全霊の力を込めて。
当然、スカートは捲れた。
パンツも見えた、と思う。
力いっぱい石を投げた弾みでスマホの再生ボタンが押されたみたいだ。
先程のボリューム設定のままに、バド・パウエルはスマホのスピーカーから大音量で流れた。
絨毯からクレオパトラが転がり出てきて、カエサルとダンスを始めたようなスインギンでバップなピアノ。
何が一体始まったんだ、みたいなタイミング。
流れるようなピアノ、低音のウッドベースにドラムのトリオ演奏。
あたしの投げた石は川面を跳ねて、真っ直ぐ対岸に向かった。
トン
トン
トン
伸びていく。
おお、とあたしは心の中で感動の声をあげた。
そして
トン
見事に対岸にたどり着いた。
途端に歓声があがった。歓声を上げたのはあたし、ではない。後ろの子どもたちだ。
あたしだって大人だからね。
やるときはやるのよ。
バド・パウエルのピアノはご機嫌だった。エキゾチックなメロディを彼は軽快に弾く。彼の指にかかればどんなプレイだって思い通りになる。自由自在だ。
スピーカーからピアノに重なった彼の小さなスキャットが聴こえる。
ララララララ…。
収録マイクはピアノに向いているので、本来彼は声を出してはいけない。にも関わらず彼はスキャットした。その声が小さな音で録音されてしまった。
そう、彼は楽しんでいるんだ。収録という作業ではなく、プレイすることそのものを。
ピアノが楽しすぎてスキャットが我慢できない。
子どもたちが俺も俺もと言いながら次々水切りに挑戦していた。
「ピアノはなんと言っても…」と宣う彼の顔が思い浮かんだ。
知識があろうとなかろうと屈託なくバド・パウエルを楽しんでいる彼。
満足な知識がないから、と彼が楽しむことを許さなかったあたし。
いつでも上機嫌な彼。
いつでも不機嫌なあたし。
楽しむことって自由だわ。
「もっとジャズに詳しい人がいるからジャズを語るな」って何?あたし何処の誰に許可取ろうとしてたんだろう。ただ目の前にあるものを、あたしたちだけが愉しめば良いだけだったのにね。
スマホが震えて彼からのメールが届いた。
写真が添付されている。
街角で大道芸人を見つけたらしい。
ピエロがジャグリングしていた。
と、思ったらピエロのコスプレをした彼だった。どんな状況でそんなことになってるのか全く想像がつかない。
あたしと喧嘩した後なのに、こんなに愉快そうにして。彼、馬鹿だわ。
子どもたちにお願いしてあたしも写真を撮ってもらった。川の前で仁王立ちしてVサイン。
子どもたちが、俺も俺もと一緒に映って集合写真になった。
全員でVサイン。
小さな子どもたちに囲まれてクレオパトラ気取り、なんてとんでもない。これじゃまるでガキ大将だわ。
この写真をメールに添付して送りつけてやる。
彼、なんて思うかしらね。
(短編小説「クレオパトラの夢」村崎懐炉)