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生まれた時代が違えば生きて行けない #2

↑前回の記事

前職を辞めた後、僕は失業保険を利用して半年間休養していました。
前年度から収入も激減したので、年金の控除も受けることができます
社会保障の充実していない国と時代では、僕はホームレスになるでしょう。

この時代に生まれ、この時代にうつになったから、僕は生きています。


時代が許容している

「「「この時代にうつ病になってよかった!」」」


すいません。(ポジティブシンキングが僕の特技でもあるので……)

うつ病というと、みんな身構えます。僕は職場でうつ病をおおやけにしていませんが、上司のみに伝えます。

父のはなし

昔話をします。

父もうつ病でした。
最初は父が24歳のとき、それから約30年もうつ病と闘いながら仕事を続けてきました。

父と見切れる僕

「うつ病?なんか、ヤル気がでないやつね」という認識しかない時代。
「男なんだからしっかり金稼いでこい」という時代。


うつ病は外見に表れにくい病気です。

ココロが裂けて、血がドバドバ流れ出たらいいんですけどね。

そうすれば、「こいつやばい」「すぐに帰っていいよ」「救急車呼ぶ?」って周りが認識できるんですけど。

うつ病は、自分でも気がつきにくいんです。

どことなく体調が悪いけど風邪じゃない。
食欲がないな、眠れないな、楽しいこと……ないな。
音楽が鬱陶しいな、テレビうるさいな、なんか全部……いやだな。

そういう積み重ねがあっても「疲れてるな」です。

実際に疲れてます。
ただし、それは肉体的な疲労よりも深刻なココロのすり減りです。
もう、すり減りまくってます。
自転車を猛スピードで漕いで、パコーンとこけて、勢いのまま、顔面の皮ふをアスファルトのざらざらで、ぎゃぎゃぎゃっ、と削ったくらい重傷です。血がドバドバ出ます。
いますぐ病院で診てもらえ。

でも、ココロがすり減っても目に見えないし、痛いわけじゃない。
気がつかないんですね。


だから当時、父は自分の異常に気がつけなかった。
新婚当時、母も、父の目に見えない異常に気がつかなかった。

父は職場でも言い出せなかったそうです。

「なんかヤル気出ないんですぅ」
「あ? ヤル気ねえとか、お前何言ってんだ。ヤル気とかつべこべ言わずに、やるんだよ!」

そういうパワー思考な時代です。

結果、父は家庭と職場に居場所を作ることができませんでした。


「甘えてもいい」と思う

妹(左)と奥さん(右)と

僕は自分を弱いと思ったことはありません。むしろ、ポジティブシンキングなハッピーボーイです。

もちろん、うつの時は、

「この時代に生きてすいません僕の使命を果たさなくてごめんなさい」

という気持ちでいっぱいになります。

でも、自他共に認めるポジティブシンキングでハッピーボーイは、その自己否定な弱い自分を、他人に見せることができないでいました。

人に弱さを見せるきっかけは25歳のとき。

僕は職場でのストレスで、重たい鬱状態になりました。

その時の僕は、飯も食わん。寝れもせん。みるみる痩せ、動悸がひどい、めまいで倒れる。そんなアン・ハッピーボーイでした。

奥さんは「あんた大丈夫なん?」と心配します。

「大丈夫大丈夫」
「いや絶対やばいから。ねえ、仕事休めば?」
「大丈夫大丈夫」

そんな僕に奥さんは、声を荒げます。


大丈夫じゃないでしょ!!!

イラッとして「さなちゃん(奥さん)、には関係ない。もうほっといて」と、言い放ちます。
おいおい、25の僕、ひどいやつだ……。

「ほっとかない!私じゃダメなん?お義母さんに電話したら?」

なんでオカンが出てくるんだ。オカンが心配するだろう。

とにかく、『大丈夫じゃない』と言え。言いなさい!
もうすごい怒るんです。涙をボロボロ流しながら、怒るんです。

(泣くなよ。しょうがないから、言ってあげるか)

僕はそこで初めて「大丈夫じゃない」と口に出しました。

ああ、甘えちゃった。男のくせに。

大丈夫じゃない、と言うと、ダムが放流開始されました。

大丈夫じゃないんだ、僕。
本当は助けてほしいんだ、僕。

今度は、僕が泣きながら「助けて」と、奥さんに言いました。
濁流です。濁りに濁ったダムの水が、ゴーゴーっと一気に出ました。

ココロが少し楽になりました。

甘えていいんだ。甘えたら、少しだけ楽になるんだ。

僕は、楽なほうに流れていく生き物でした。
楽になると分かれば、あとは難しいことはありません。

甘えればいいんです。

そうして、僕は家族と社会に甘えていくと決めました。

次は、僕が自分の理想と現実を頑張って両立させるために、甘える話です。

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