後悔で溢れる世界〈b:お悔やみ編〉ep.芦分三科「芽生えた心、ここに在らず」④
4.
そうして彼女は、人間になった。
通学路。
大好きな人と歩く、大好きな道。今更ながら、そこを吹き抜ける風はこんなにも冷たいのだと知った。沈んでいく夕日に妙な寂しさを感じた。脇を駆け抜ける子供が愛くるしいと思った。
この世界には、彼女の知らない初めてがたくさん溢れている。
いまの彼女はもうそれを、知識としてではなく、感覚として、感情で理解できる。
大事ななにかが一つ、ぽっかりと抜け落ちてしまったこの世界と、そんな世界に生きる人々の存在を。
「──だからな三科、俺はお前が……」
考えるという行為は、好きな人の声までも遮ってしまう。
芽生えた心に流れてくる、ビッグデータよりも複雑で難解な情報に取りつかれて、三科はどうやらまた、恋人の話を聞き流してしまっていたらしい。
「おーい、七科? おーい」
「……あ、ごめんごめん。ちょっと、夕陽に見蕩れちゃってて」
「そっか。それ、なんかキャラじゃないな」
「うるっさい。……で、何の話だっけ?」
「やっぱり、全然話聞いてくれてないじゃねえかあ!」
「だから、ごめんって言ってんじゃん」
スクラップは免れても、三科の内から恐怖が消えることはない。
むしろ、感情が与えられたことによって、彼女のそれは日に日に膨れ上がっていくばかりだ。
いつか離れ離れになるかもしれない、別れなくちゃいけない場面が来るかもしれない、いつまでも一緒にはいられないかもしれない。
そう思うと悲しくて、切なくて、辛かった。苦しかった。
「ねえ、夏向はさ」
こんな気持ちを、夏向も感じてくれているのだろうか?
だとしたら、どうしてそうやって、笑っていられるのだろう?
それとも、こんなにも苦しくて辛いのはわたしだけで、夏向はそこまで考えてはいない?
現れたばかりの心の奥底から、次々と感情が溢れ出してくる。
気を抜いたらその全てを吐き出してしまいそうで、そうしてしまうのは嫌だから押し込めて、悲しみは不安に、切なさは焦りに、辛さと苦しさは苛立ちと迷いに変わって、三科の内面を蝕んでいく。
「わたしのこと、好き?」
見上げた視線の先に映る恋人の、一瞬、驚いたような表情。そうなってしまうのも仕方がない。そんな不意を突いた意地悪な質問、本来ならば恋愛対象も時計が決めてくれる現代では、まず浴びせられることはないだろうから。
きっといまの芦分三科は、たった三十年で異例の幕閉じをした元号『平成』で散在していた、いわゆる『メンヘラ』と呼ばれる類の面倒くさい女になってしまっているのかもしれない。
知識としては知っていても、まさか自分が人間になるとそうなる体質であったことなど、露ほども思いもしなかったが。
面倒くさい、でもいい。想いさえしてくれるなら。
ただ一度、ちゃんと言葉で聞いて、確認したかったんだ。
「当たり前だ。好きだから、告白したんだから」
人間としては、まだ聞いていなかったこの言葉を。
「そう……嬉しいよ」
嬉しかった。その気持ちに偽りはない──一応形式上は父母に当たる、彼女を開発した科学者達ほど、三科は自分の気持ちに嘘をつくのが得意ではない──はずなのに、彼女の胸の中のもやもやは、まだ晴れない。嬉しさとか幸せよりも、どうしようもない苦しさが、心を支配したままだ。
「ああ。言っただろ?」
その理由は、次に発された鈴木夏向の言葉で、わかった。
「俺は人間として、芦分三科が好きなんだって」
笑顔で発せられた恋人の言葉が──一切の悪気のない好きな人の言葉が、三科の鼓膜的機能部分を通って、人間そっくりに造られた機械仕掛けの体内で、残酷な意味を伴って反響する。
鈴木夏向は、芦分三科のことが好き。
人間として好き。
人として、好き。
人類、として、好き。
〈くくく、残念だったなあ。純正のヒトとして、生まれてくることができなくてよお〉
込み上げてくる切なさと悲しみに混ざって、何者かが嗤いかけてくる。機械じゃなくなって、意志を持って、恋をして、たったそれだけで浮かれていた、愚かで哀れな少女を嘲笑う。
未来は変えることができても、過去は変わらない。
芦分三科が、後悔誘発機の三号機として、人類の道具として造られた機械であるという事実は、決して消えることはない。
「……ごめんね」
そうか、そうだったんだ。
「ごめんね……ごめんね、夏向」
夏向が好きになってくれたのは、わたしじゃなくて。
『人間として』の、芦分三科だったんだ。