後悔で溢れる世界〈b:お悔やみ編〉ep科学者2 「機能的人権の尊重」⑦
7.
親友の少女が車に轢かれて死んだ。
そのニュースはたしかにお嬢様の心を曇らせ、悲哀の情を揺さぶるものではあっただろう。
だが、すべてが最善で最適なことしか起こらなくなっているはずの現代においては、それすらも「ああ、そんなこともあるのかな」といった程度の情報にしかならない。
行き着いた現実主義は、もはや諦念と同義だ。
運命に身を任せすぎる人間の感情は、システムで動く機械と区別がつかない。
なんでも受け入れられる、という機能は、およそ生物としての在り方が根本的に間違っているとしかいえない。
万物の恐怖であるはずの『死』ですらも、最良の幸福な結果に過ぎなくなる。
「うそ……あの子が……どうして……」
ただ、それはシルクが本当の意味で時計に頼り切った人生を送っていた場合の話である。
むかしから、その個人の人格は生まれ持った才能や感性ではなく、周囲の環境によって形作られていくものだという──選択をしなくなった人間は後悔を知らぬまま育つように、機械に依存した人間が感謝の言葉を述べなくなるように──そしてそれは、現代でも変わらない。
彼女の価値観は、前提は、当たり前は、常識は、とっくに塗り替えられてしまっていた。
判断も後悔も消えかかった世界で、未来に抗うように生きていた、ひとりの少女によって。
「約束したじゃない……時計の選択に従って、一緒に『生きる』って」
いつだったか、初めて大声を出した通学路の路地。突き当りを左に曲がったところのアスファルトにこびりついた、乾ききらない血の上に転がる機械を拾い上げて、シルクはいつも通りの、抑揚の少ない声を絞り出す。
油断すれば泣いてしまいそうだったから。そうして流した涙は、自分を壊すまで止まりそうもなかったから。
「時計の選択に従ってれば、人類は常に最善で、最適な未来を生きれるようになるんじゃなかったの……? これが、あの子にとっての幸福……?」
シルクは知ってしまっていた。親友の『実験』によって。
人は自分の意志で行動を選択できるということを。未来はいくつもの分岐に繋がっていて、選択次第でいくらでも変えられることを。
「わたしがあんなこと言ったから……無責任なお願いをしたから……だから……だから死んだんだ……」
もしかしたら彼女は死ななくてもよかったのかもしれない、という、どうしようもない事実を。
「わたしのせいだ……わたしのせいだわたしのせいだわたしのせいだわたしのせいだわたしのせいだわたしのせいだわたしのせいだわたしのせいだわたしのせいだわたしのせいだわたしのせいだわたしのせいだわたしのせいだわたしのせいだわたしのせいだわたしの」
罅の入った時計の選択は『左に曲がる』べきだと示していた。
「あのときわたしが、あの子に時計の選択に従えなんて、言ってさえいなければ……!」
〔自業自得だろうがよお、くくくっ。なに泣いてやがんだあ?〕
意識の奥深くから、得体の知れない声が聞こえてきたような気がして、驚いたシルクは手に握りしめていた機械──親友の忘れ形見──を、投げ捨ててしまった。
その途端、生前の親友と交わした、ある会話を思い出す。
『どんなものなの? その、こうかいって』
『とっても、辛いものみたいだよ。息の詰まるほどの煩わしさと、どうしようもないもどかしさが胸の中を支配したような、ひどく苦しい感覚のことを言うんだって』
もしかして……これが、後悔?
生まれて初めて味わう息苦しさに支配された胸を抑えながらうずくまり、身体の奥から湧き上がるドス黒い感情に、ぐちゃぐちゃになった意識を傾けようとした──シルクの視界を、真っ白ななにかが覆う。
「このハピネスウォッチはきみの物か?」
視界を覆い意識に被さったそれは、白衣だった。
顔を上げると、うずくまった少女の眼前に、白衣を着た若々しい男が立っていた。
科学者かなにかだろうか、と、シルクは咄嗟に判断する。
「……おかしいな」
白衣の男──後のシルクの上司となるレフトホイール社初代社長の天才科学者は、シルクの様子をじっと観察して、なにかを考え込むようにぼそりと呟いてから問いかける。
「きみ、名前は?」
「……へ? なまえ?」
「ああ、少しきみに興味がある。名前を聞かせてくれないか」
「はあ、そうですか……。ええと、わたしは──」
ここで見ず知らずの大人を相手に自身の名を名乗るべきか時計を確認しようとして、親友の優しい笑顔が頭を過り、シルクは制服の左袖を手を覆い隠すくらいまで引き下ろした。
それから眼前の白衣から目線を外さず、代わりの言葉を口にする。
「──その前に。ひとつだけ、質問してもいいですか」
「? ああ、かまわないが。なんだ?」
「人間と機械の違いって、なんだと思いますか?」
このときシルクは、目の前の男がかの機械の発明者であったことも、そこに搭載された遠隔操作システム──社会の均衡を保つための『均し』の仕組み──によって起こった『事故』現場の確認でここに来ていたことも、知っていたわけではなかった。
このときの彼女の胸の中にあったのは、内から湧き上がる不穏な感情ががなり立ててくる叫喚は、ただ親友の命を奪った機械に対する憎しみと、それから逃れて生きることのできない、自分を含めた哀れな全人類に対する失望だけだった。
行動する意思を持たない人間なんて。諾々と死を受け入れられる生き物なんて。
機械と、なんら変わらないじゃないか
「……なるほど。そんなことなら、答えは簡単だ」
少女の決死の問いかけを受けて白衣の男は、その想いを踏みにじるかのように、ばっさりと切り捨てるように、正解を投げ渡す。合理的な正論を突き付ける。
「ヒトとして生まれたなら人間、道具として造られたなら機械だろう」
そんな当たり前の理屈が。
親友を失い、常識を壊され、己を責め立てていたシルクの意識にすとんと落ちた。
人間は人間でしかないし、機械は機械でしかない。
「もう質問はいいかな? で、きみの名前は?」
考えても仕方がない。落ち込んでても始まらない。先に立たない悔いなんて捨てて、前に進まないと。
「わたしの名前は──」
そうだ。『実験』をしてみよう。道具でしかない機械を使った、愚かな人類の為の実験を。
いつのまにか本心から大好きになってしまっていた親友が、生きようとしていた未来を、作ってみよう。
「──わたしのことは、そうですねえ。『科学者2』とでも呼んでいただければ結構ですよ。ほら、その服装を見るにあなたも研究者かなにかでいらっしゃるようで。どうですか、わたしを助手として雇ってみては? わりかし優秀な人材ですよ、わたしは」
昨日までずっと隣を歩いていた親友の抑揚に富んだ喋り方を真似しようとして、それがお嬢様特有の堅苦しさと混ざり、ぎこちない慇懃無礼な敬語口調を発しながら。
少女は左手首に巻いていた時計と、親友を殺してしまった自分の名前を、そこに捨てた。
「こんな時計に代わるもっとちゃんとした機械を、共に造ろうではありませんか。人類の更なる幸福と発展のために、ねえ」
もうこれ以上、自分と同じような想いをする人間が、現れなくてもいいように。