りなカルテット『次元の狭間』
1.
幼いなぁ。
「じゃ、次はお前が鬼なー!」
「また俺かよ! 次は、って、さっきも俺だったじゃん!」
「ちょっとー! はやくブランコ交代してよー!」
「なに言ってんの! シルクちゃんが終わったら、わたしが乗るんだよ!」
幼稚。幼く稚拙。
"順番"という概念ほど、くだらないものもない。
幼稚園の遊具に囲まれながら、齢一桁にしてわたしは、本気でそんなことを、ぼんやりと考えていた。
周りの子たちが、なんだかひどくつまらなく見えて。お遊戯も、お弁当も、ぜんぶぜんぶ、退屈で。
目に映るもののすべてが、わかりきったことの焼き直しにしか、思えなかったから。
わたしは、本の中に居場所を求めた。
ここじゃないどこかに、逃げ込んだ。
そしてそんな幼女の逃避行は、達観したつもりで年相応なわたしの、ささやかな冒険は。
いともたやすく、成功した。
2.
人の気持ちは沼のよう。
「里奈ちゃん、この資料、先生に届けてきてほしいんだけど、お願いできる?」
一途輪操(いちずわきみ)。中学の頃の同級生。
「いいよ。どの先生に渡せばいいかな?」
わたしは、ふつうにそう言っただけだ。
断じて。
他意はない。
「え? わかるでしょ」
輪操ちゃんのその眼の奥は、とても深かった。
「……? ごめん、だから、どの先生に」
「二組の判断(はんだ)先生に決まってんじゃん。わざわざ言わせないでよ」
その声は、深海の水のように冷たかった。
「あ、判断先生ね。でも輪操ちゃん、なんで」
正直なところ、この『なんで』に続く明確な言葉を持っていたわけではなかった。
「もう、うっさいなあ」
彼女は叫んだわけではなかった。しかし、あくまで静かに放たれたその声は、どんな怒号よりもわたしの胸に深く突き刺さった。
「知ってるくせに」
「え……?」
むかしから、噂話とか愚痴陰口の類いには、あんまり関与しないことにしていた。
「ごめん……なんの話?」
「あんたもそうやってわたしの反応見て、楽しんでるんでしょ」
「だから、なんの」
そういうのは、作り話とほとんど変わらないから。本で読んだり画面で眺める虚構は楽しいけれど、現実の人間が自分の都合良いようにでっちあげた嘘の物語なんて、つまらなくも苦しいだけだ。
言葉は重ねれば重ねる程、重く深くなっていく。よくもわるくも。
「もういい。わたしが持ってく」
預かった資料を奪い取られ、両の手が開いたから。
「……結局、里奈ちゃんもそうなのか。わたしをバカにしやがって」
わたしはまた、校則を破ってこっそり持ち込んだゲーム機の中に、逃げ込んだ。
3.
『好きです。付き合ってください』
と。
『愛してる。一生大切にしたい』
と。
『黙って俺についてこい』
なら。
「どれが一番萌えるかな!?」
わたしの前の席に後ろ向きに座って、背もたれに腕を置いて顔を覗き込んで来るのは、わたしの友達。
「うーん、難しいわね」
「ね! ね! 難しいよね!」
根廻律庫(ねまわしりつこ)。ヲタク友達だ。
「依存束縛系ヤンデレ王子様もいいけど、ワイルド金髪俺様系も捨てがたいよねーあ、でもでもここは純真無垢なストレート告白が一周周ってむしろ逆にポイント高いか!? ってかこの三種類に搾る必然性とかは特にあるわけじゃないんだから──」
「あ、りつこりつこ。難しいっていうのは、そういう意味じゃなくて」
一度話し出した彼女のマシンガントークは、こちらから制止しないとなかなか止まらない。わたしの反応に声を出すことはやめてくれたようだが、それでも、走り出した猪が急には立ち止まれないように捲し立てた舌をすぐに収めることはできないようで、律庫は口をパクパクさせたままわたしを見つめる。
鯉みたい。
「どれもあんまり、いまいちわかんない、っていうか……」
相手の尊厳を奪わないよう、それでいて且つ変な期待や誤解を招かないように、おそるおそる発したわたしの発言を受けて、律子は今度は口ではなく目をパチパチとさせる。
「え!!!!!!!」
そして、一際大きな声で感嘆符を大量に並べてから、ようやく止まりかけていた舌を巻く。
「なんで、なんでなんでなんで!? あ、もしかして里奈ちゃんはもっとクールなニャンコ系がよかった!? それともツンデレ世話焼き弟萌えする人!? うわーごめん、わたしリアルで弟いるからそっちはあんまし」
「りつこ、ちがうちがう。そうじゃなくて。こういうの自体、あんまり入れ込まないっていうか……」
こういうの──『イケメン育成ノベルゲーム』。
「なんで!? なんでなんでなんで!!??」
「だってさ」
画面の中で生きるイケメン男達との疑似恋愛を体感する娯楽。
「結局、嘘じゃん」
「うそ……?」
噂話とかと、同じ。
「たしかにわたしも、ホラーゲームとかアクションゲームは好きだけど……その手のシミュレーションゲームは、あんまり深くは踏み込めないのよね」
だってそれは、結局のところは。
「どんな言葉をかけられたって、それは現実の言葉じゃなくて……『どこかのだれか』が設定した、『どこかのだれか』を喜ばせるためのものだから」
嘘は嘘として認識してしまえば、虚無でしかなくなる。
わたしはこのとき、学校も、先生も、クラスメートも──目の前にいる親友ですら、心から信じられなくなってしまっていた。
「──そっか」
自分の好きなものをこうもあからさまに否定され、それでも怒ることも、悲しむことも、大袈裟に驚くこともせずに。
律庫は、深く静かな息を吐く。
「まあ、人の好みはそれぞれだしねー。わたしも沼に嵌るまでは、どっちかというと嫌悪感すらあるジャンルだったし」
乱射を終え、熱の篭る銃器から上がる硝煙のような息を、ただただ、ゆっくりと吐く。
「まあさ、でも」
わたしは律庫を──いわゆる"夢女子"という人種を、勘違いしてしまっていたのかもしれない。
どこかでわたしは彼女達のことを、現実から目を逸らして都合の良い虚構に逃げ込む臆病者のように捉えていた──わたしのように。
でもきっと、そうじゃなくて。
「ハマってみると案外、夢中になれるもんだよ──それこそ、夢の中にいるみたいに。里奈にも推しメン、見つけてほしいなあ」
この子達は、嘘とか偽りと真っ向から向かい合う強さを持った、兵士なんだ。
4.
"心"っていう漢字は、なんだかバランスが悪いと思わない?
直線なんてひとつもない、折れたり曲がったりした四本の線から成るだけの字。間抜けで、頼りなくて、よくよく見てみるとどうしようもなく不安にさせられる。
『好き、とかは、よくわかんないけど』
そんな不安定で不確定なものを抱えて生きていかなきゃいけないだなんて、人間って、なんて面倒なんだろう。
『一緒にいたい、とかは、思うかも』
人生って、なんて億劫なんだろう。
『──あ、そう。付き合ってる人、いたんだ……ごめんね、迷惑だったよね』
人間関係は、猥雑だ。
一度絡まった心を解きほぐすのは、時間がかかる。そしてそこまで拗れた関係性ならほとんどの場合、必死にアヤ取りしてる間に飽きてしまうものだ。たぶん。そうなればいいと、切に願う。
『……迷惑かもしれないけど、これからも友達として仲良くしていけたら、うれしいです』
頭の中で何度も何度も、さっきの会話といままでの思い出を反芻する。
初めて話すきっかけになった調理実習、同じ班になって嬉しいよりも恥ずかしいが勝った修学旅行、競い合った試験の点数、貸し借りするために勉強した好きでもないアーティストのCD、何気ない挨拶、返しそびれて机の引き出しにしまったままの消しゴム──いつも楽しそうな、きみの笑顔。
わたしの『つまらない』を弾き飛ばしてくれたきみの存在は、たぶんこれからもわたしの心の退屈を掻き消してくれることだろう。
でもそれはいままでみたいな幸せ色じゃない。きっとそれはほかのなによりも辛くて苦しくて、わたしの心を苛んでしまう。
だから。
「そういえば中学のとき、律庫に無理やり貸されたんだっけ。これも、返しそびれてたや」
わたしは、埃を被っていたゲーム機の電源を入れる。
「……この白衣の人、かっこいいなあ。職業『保険医』かあ」
こんな気持ちになるくらいなら、嘘をつかれたほうがまだ、ましだった。