後悔で溢れる世界〈a:後回し編〉ep科学者1 「朽ちない罪、果てない罰」⑥
6.
「わたしと付き合ったこと、後悔してる?」
閑散とした大学の構内。
ベンチの横に座って寂しげな微笑を浮かべながら見つめてくる恋人の視線を受け、ロード──当時はもちろん、本名を名乗っていたが──は、わずかに緊張する。
態度に出ていただろうか。はっとしながらも、平静を装って優しい言葉を返す。
「まさか。思うわけないよ、そんなこと」
「うそ。あなたいま、すっごく焦ってる」
榊枝ロードはそれまで、いわゆる「劣等感」を感じたことがなかった。
学校の成績は常にトップであったし、頭の回転も早く、周りからず抜けて冴えていた。かけっこやスポーツで負けることはあっても、それが自分の栄えるステージではないということをきちんと理解していたから、それに対して義憤するということもなかった。
負け知らずの天才にして神童。
要は、無敗の勝ち組だったのだ。その状況は彼が大学生になってからも続いていた。
つい、この間までは。
「たしかにわたしはあなたほど頭は良くないし、正直あなたの考えていることを完全には理解できない……してあげられない部分も多いけど。あなたがなにを感じているのかは、よくわかるよ」
恋人から向けられる強い視線は、ロードの心を刺そうとするように鋭く尖っている。
「たぶん、あなた自身よりも」
「…………」
「初めて負けて、悔しいんでしょ? 灰田くんに」
ロードはこの冬、初めての敗北を経験した。
彼らが通うのは日本が誇る国内最難関の大学、そこで学科最優秀の表彰を受けることは、すなわち専攻しているその分野において、日本でもっとも優れた能力を有する学生であることの証明になる。
これまで一回生から三回生まで、ロードは自身の在籍する薬学科の最優秀者の椅子を独占し続けていた。
しかし学部生最後の今年、ロードはその椅子から転がり落ちることになる。学位授与の薬学科の代表として選ばれたのは彼ではなく、彼と同じ研究室に所属する同期の友人だった。
研究室の担当教員曰く、「女なんか作って色恋に現を抜かすから、お前は追い抜かれたんだ」と。
そしてその責任を──国の宝を汚してしまった負い目を、輝かしい若者の将来を奪いかねない危機感を──もっとも強く感じていたのは、他ならぬ恋人である彼女自身だった。
「わたしのせいでしょ? わたしが、あなたに付き合ってなんて言ったから──あなたの時間を奪ったから」
「それはちがう」
ロードは食い気味に否定する。教授に対してしたように。
「それはちがうよ。僕が成績を落としたのは、僕のせいだ。それにそんなことをいうなら、君と付き合う以前から勉学よりも遊びの方が好きな友人は少なからず周りにいたし──とにかく、きみのせいじゃない」
「でも……」
「言っただろう?」
それでも尚、瞳を潤ませて納得のいかない様子の彼女の頭に手を置いて、ロードは優しく笑いかける。
「きみが言わなかったら僕から言おうとしてた、って。それと、僕たちはこの先どちらかが死ぬまでずっと一緒だって」
二人はしばし見つめ合い、そうして互いの瞳の奥に自分の存在が映っていることをゆっくり確認してから、微笑み合う。
彼女がもう自分のことで己を責めるのを止めたことに安堵しながら、ロードはベンチから腰を浮かす。
「今日も研究? 大変ね」
「ああ。もう、ほとんど趣味みたいなものだけどね」
「なんの研究してるんだっけ?」
「不老不死」
「……ふふっ」
唐突に噴き出した恋人に、ロードは訝し気な視線を向ける。
「なに笑ってるの」
「いえ、だって、やっぱり何度聞いても面白いなあって……ごめんなさい」
楽しそうに笑いながら謝る彼女に、つい見蕩れてしまう。
その笑顔にはなんの邪気も悪意も込められていないことがわかるから。ヒーローの英雄譚に身を乗り出す少年のような心持で、教授や博士まで聞けば眉根を寄せる若者の馬鹿げた理想を、聞いてくれていることがわかるから。
「僕は本気だよ」
「わかってる。あなたはいつだって、真剣だもの」
そんな狂気までを含めて好いて、愛してくれているのだと、実感できるから。
「でも、あなたなら本当に完成させてしまうかもね……不老不死の薬」
夕暮れ刻、世界は昼から夜に切り替わる。差し込む光の傾きが、二つの影の形を変える。くっついてひとつになったり、わかれてふたつになったりしながら夜に紛れる準備を始める地面の黒を見つめつつ、彼女は小さく「どちらかが死ぬまで、か……」と、呟いてから。
満面の笑みで、小指を差し出した。
「二人ともずーっと死なない身体になれたなら、永遠に一緒にいられるのにね。私達」
若き天才は、恋人の細くて白い指に、薬品荒れした自身の小指を絡ませながら。
「うん、そうだね。僕がいつか、そんな薬を作ってみせるよ」
未来を約束した。
人がひとりいれば、そこから繋がる未来は無限にある。歩む道がひとつだとしても。
だから。
「だから、ずっと一緒にいよう。世界に、僕ときみしかいなくなる、そのときまで」
人がふたりいて、ひとつの道を歩んでいけるだなんて──ましてやひとつの未来に繋がっていけるだなんて。
そんな幸福は、ありえない。