後悔で溢れる世界〈a:後回し編〉ep.榊枝七科「大っ嫌いだよ」⑤

5.

「嘘と真実の境目なんて、実際のところひどく曖昧ですよねえ。ひとつの事象に対してふたつの結論が出た場合、そのどちらが正しいかなんて──どちらが嘘かなんて、わからないはずでしょうに」

 帰り道。

『レフトホイール社』の副代表にして社長の部下である女性科学者が、いつもの軽薄なにやけ面を湛えたまま、下校途中の七科の前に白衣姿で立ち塞がる。

「科学の現場なんかでは特に顕著に見られる傾向ですが、そうやって異なる結論が出たときって、後から出た答えの方が、どうしても真実っぽく感じてしまいますよねえ」

 AルートよりもBルートの方が、正規な世界線かのように思ってしまいますよねえ。

「なんの話ですか……? お母さん」

「いえいえ、ただの『もしも』の話ですよ。仮にあなたが試験に失敗していたら、あなたではなく他のだれか……例えばナンバースリーなんかが、こうなってしまっていたのかもなあ、という、無根拠な憶測です。科学者としてはあるまじく」

「こうなって……」

「ええ。まるで、人間みたいに──恋する少女みたいに振舞って」

 ドクン。

 もしも──それこそもしも、榊枝七科に『心臓』なるものが備わっていたならば、それはそんな音を立てて、激しく脈打ったかもしれない。

 実際は、血液のようなエネルギーを機体全体に巡らせる彼女に備わったポンプ機能は、一定の速度で収縮を繰り返しているだけだが。

 機械は現状に動揺しない。

 はずなのに。

「な、なんの話でしょうか」

「とぼけないでください。人間ぶって」

 女性科学者の目が、冷たく光る。

 侮蔑と嫌悪に塗れた、刺すような、暗い視線。

「田中湖陽」

「……っ!」

 そんな視線に晒されていても、身体が無意識に反応してしまう。

 好きな人の名前を呼ばれると。

「ほら、赤くなった」

「いえ、あの、これは……」

「機械は、赤面なんてしないんですよ」

 真っ赤に火照る頬に手を当てる榊枝七科──脳部の指令よりも、頬の熱に気を回す七号機──の反応を見て、女性科学者は手首に時計の巻かれた右手を、乱暴にポケットの中に突っ込む。

「使い物にならなくなった機械は、廃棄せざるを得ませんからねえ──一号機や二号機のように」

 そうして取り出したのは、スタンガンのような形状をした、なにかの機械。

 まるで武器。

「そんな……わたし、なにか問題でも……」

「問題だらけでしょう。あるはずのない感情みたいなものに振り回されて、報告もろくにできない機械なんて」

「報告はちゃんと」

「嘘偽りなく?」

「……それは」

「人間に嘘をつく機械なんて、聞いたことがありませんよ。発展の為にしかたなく、人類を騙すのならともかく」

「それとこれとは、なにが違うんですか?」

「なにもかもです。あなたに──あなた達に、幸せになろうとする資格なんてないんですよ」

 本音を隠した女性科学者の、その仮面みたいな微笑の下の表情がどんなものであるのかは、想像することしかできない。怒っているのか、呆れているのか。

 泣いているのか。

 とにかく、それが憎悪に類する感情と紐づけられていることは明らかだ。

「……いや。やめて」

「いや? やめて? ……ハナから命のない機械に、『生きたい』なんてないでしょうに」

 冷たい眼で──機械のように冷え切った眼で七号機を見下しながら。

「さよならです──ナンバーセブン」

 女性科学者は手に持っていた機械を、彼女の脳部に振り下ろした。

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