後悔で溢れる世界〈a:後回し編〉ep科学者1 「朽ちない罪、果てない罰」④

4.

「それで、怒って帰っちゃったんですか? 大人げない」

 とある会議室。
 実権的には社会の中枢であるにも関わらず、その内部のなにもかもが闇に包まれた『レフトホイール社』の一室で、白衣の男女が向かい合う。

「この世界から『後悔』を消したのは、他ならぬあなたでしょうに」

 嘲るような薄笑いを張り付けて、白衣の女性科学者は嫌味に塗れた声音を発する。真向かいに座る男性科学者はそれでも落ち着き払った態度を崩さぬまま、冷静に言葉を返す。

「怒って帰ったわけじゃない。それ以上面談するような事柄がなくなったから、席を立っただけだ」
「時間内に面談を切り上げて席を立つような振舞いを、世間では『怒っている』と言うんですよ──まあそれすらも時計の選択であったのだろうと、向こうは勝手に解釈してくれるのでしょうけれど」

 部下と上司のやり取りはいつも、会話の体は為していても心が通っていない。視界には入れても視線は交わらない。
 互いの口から発される冷気を含んだ言の葉が、双方の間をただひらひらと舞うだけだ。

「それすらも最善……か」
「なに釈然としないみたいな顔をしているんですか、いまさら」

 心が痛んだ振りならやめてくださいねえ、不快ですから──女性科学者は言う。

「四号機──和名『振袖詩化』の試験校で起こった同級生の事故死は、あなたの選別──調整の結果でしょうに。赴任前の学校で彼らの担任を勤めていた彼を責める権利が、あなたにあるとでも?」

 ハピネスウォッチは、常に最善で最適の未来を選択してくれる──わけではない。

 それは統計の限界、その不完全性を取り立てた主張というだけではなく、意図的に、作為的に、いわば「わざと」最善でも最適でもない選択を表示することもあるという意味だ。

「人生とはおしなべて、幸せというゴールに向かった競争でもあるわけですからねえ。そして競争には必ず、順位がつく」

 勝ち負けが介在する。

 女性科学者が飄々と喋り続けるのを、男性科学者はただ黙って聞いている。

「平成期の小学校の運動会でもあるまいし、皆がお手手繋いで仲良くゴールテープを切るなんてことはあり得ません。いくら稼いだか、どれだけ高名か、いかほど強靭か──指標は様々あれ、幸福にも順位付けが行われます。勝ち組と負け組が生まれます。そして、その格差こそが社会を育み、世界を円滑に回す」

 の、でしたよねえ──女性科学者は嫌味たっぷりの微笑を目の前の上司にぶつける。

 彼は顔を下げたまま、目線を床から外さない。

「飛ぶ鳥がいれば、堕ちる鳥もいる──だれかにとっての最善は、またほかのだれかの最善でもある。世界に転がった幸福の総量は、一定で決まっている。ひとつのケーキを百人で分け合えば、だれのお腹も満たされない。だれもかれもが幸せだと、みんなの心が満たされない。だから──」

「だから、不幸な事故に遭ってもらったんだよ。彼にはね」
「──ですよねえ。もちろん、人類のために」

 ここで初めて、科学者達の目が合った。眼が遭った。互いの瞳の奥で揺れるその『過去』をなんと呼ぶのか、いまとなっては人類みんなが忘れてしまっている──この二人と、愚かな実験体を除いては。名前を捨てた二人だけが、ずっとその名称を、心に刻んで生きてきた。

「もう一度だけ、質問してもいいですか? 社長」

 得意のにやけ面を崩さぬように──決別したはずの過去に引き込まれぬように──気を遣いながら、女性科学者、さしずめ科学者2は問う。

「あなたはどうして、自ら化け物になろうと思ったんです?」

「……何度聞いても、答えは同じだ。言っただろう?」

 初代社長、さしずめ科学者1は、その問いに冷たく言い放つ。

 冷静に、冷酷に、冷徹に。

 機械と人類の全てを嘲り笑う愚論家の舌の上で転がる、毒に巻かれた冷ややかさとはまた別種の、黄泉の凍獄を思わせる不気味な冷気を含んだ言葉を吐き出す。

 思い出しているのは、かつての最愛の妻か、溺愛の娘か。

「人間らしくあることに、そこまでの価値を見出せなかったから──それだけだよ」

 それとも、若かりし頃の、彼と彼女の約束か。

いいなと思ったら応援しよう!