後悔で溢れる世界〈a:後回し編〉ep.榊枝七科「大っ嫌いだよ」①
1.
好きの反対は無関心、という言説がある。
しかし一口に『好き』と言っても、好意の種類にも色々あるわけで、単純に感心の有無が対象への好嫌を測る指標に成り得るかと考えれば、些か容易には得心しがたい主張であるように思えてならない。
友愛、情愛、親愛、性愛──愛の形は人それぞれ、動物にだって欲情し、無機物にだって愛着を抱いてしまうのが人間だ。
機械にだって恋をしてしまうこともあるのが人情だ。
特に関心はなくとも潜在的に好ましく思うこともあるだろうし、そもそも人一人の知識量なんて微々たるもので、知りもしないことに関心を持つことなど土台不可能なのだから、もしも無関心が好きの対比であるのが真実なのだとしたら、全人類は自らが生きるこの世界に存在するほとんどのものを好きではないということになってしまう──なんて、いくら考えたところで。
「ああもう、やりにくいなあやりにくいなあやりにくいなあ──調子狂っちゃうっていうか、回路が乱れちゃうよ……なんなの、これ」
恋愛は難しい。
だれかがだれかを好きになることに、理屈を捏ねたメカニズムの解説は無粋だ。
もしかしたら無関心だって、一種の好意の形であるのかもしれないのだから。
知らないままでいることで、知ろうともせずにいることで、心に予防線を張っておくことで、溢れ出したら止まらなくなる『好き』を、無意識に無理矢理塞き止めようとしているだけに過ぎないのかもしれないのだから。
好きの反対も、また別の好きかもしれない。
それでいいじゃないか。
「田中湖陽……やっぱりやっぱり、大っ嫌いだよ」
では、『嫌い』の反対はなんなのだろう?
そんなのもちろん、決まっている。
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