後悔で溢れる世界〈b :お悔やみ編〉ep科学者2 「機能的人権の尊重」④

4.

 この慇懃無礼な女性科学者にも、かつては名前があった。当然である。

 さらに厳密には、いまも名前は存在する。

 本名を伏せようと、仮名を名乗ろうと、なにかしらの形で『自分には名前が存在する』という絶対から逃れることは、機械でもなければ不死身でもない──機械である芦分三科や榊枝七科が、そして不死身の化け物であるレフトホイール社社長がその絶対から逃れられるかどうかと問われれば疑問は残るが、少なくとも──ただの人間である(ただの人間でしかない、というべきか?)彼女にはできない。

 それはこの上ない幸福でもあると同時に、この下ない不幸でもある。

 自分は自分でしかない、自分以外の何者かには成りえないという安寧は、常に変化を求めてしまうような生物にとっては恐怖とも直結しているからだ。

 だから彼女は一度壊れて、名前を捨てた。

 この世界線での鈴木夏向や並行世界での田中湖陽のように『後悔』と折り合いをつけることもできず、息の詰まるような煩わしさと、どうしようもないもどかしさに潰されて、自分ではない自分になろうと──自分でも他人でもない、ただの『科学者2』になろうとした。

 結果として、『芦分シルク』という固有名詞を短期間限定で与えられたりもするわけだが──しかし、本来の自分を捨てることには、いまのところ彼女は成功している。自分で下した判断によって。

 未来はどうなるのかわからない。ただ、過去はもう変えられない。

 これから語るのは、軽薄で毒舌で飄々とした彼女が名前と時計を捨てる以前──『後悔』が消えかかった世界で、左手首に表示される選択のみに従って生きていた頃の、そこにたしかに存在した、過去の話である。

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