後悔で溢れる世界〈b:お悔やみ編〉ep.芦分三科「芽生えた心、ここに在らず」③
3.
「え……あれ……?」
恋人と離れ離れになる恐怖から、廃棄されてしまう未来から逃れるようにして固く閉じた目を、三科はおそるおそる開けてみる。
するとその視界には、スタンガンのような形状の機械を白衣のポケットに仕舞い込む女性科学者の姿が映った。
そこでようやく、自身の身体がまだ無事であるということに気付く。手足を確認して、額を撫でてみても、特にこれといった損傷は見受けられない。
『さよならです──ナンバースリー』
そんな別れの言葉とともに彼女が振り下ろした機械は、たしかに三科の脳部を打ち付けた。
しかしそれは蚊が止まったような、柔らかな接触だった。
「どういうこと……? 使い物にならなくなった機械は、廃棄されるんじゃ……?」
三科の頭の中が、疑問符で埋め尽くされる。
「ええ。エラーばかり起こす機械なんて、もう道具としての利用価値はありませんからねえ」
「じゃあ……わたしに、なにしたの?」
瞬間、三科ははっとする。驚いたのだ、自分の口調に。
開発者である科学者と話すとき、三号機の口調は機械的であるはずで、ギャル仕様の設定を貫いてはいられないはずなのに。
「ふむ。どうやら、もうすでに影響は現れているみたいですねえ。これからどんどん、自覚していくことになりますよ」
「自覚……?」
「ええ」
科学者2は、平然と──あえて平然を装って──言い放つ。
粘り気を含んだ声で、淡々と。
「あなたは、人間になったのです。芦分三科」
彼女はもう、三科のことを『ナンバースリー』とは呼ばなかった。
「……は? 人間に、って……どういう」
「正確には、いまのあなたは人間となんら変わらない機能しか持ち合わせていない、といった方が正しいでしょうねえ。……ほら、これです」
困惑する三科に向かって、科学者は先刻彼女の額に振り下ろした機械を取り出して、手の中で弄ぶ。人類が機械に弄ばれる現代を嘲笑するように、挑発するように、ひらひらと。
「これはハピネスウォッチに組み込まれた回路を操作して、幸福度の測定──未来選択の機能を乱してしまう機械なんですねえ。ほら、あなたもご存じの通り、我が社は社会を維持するために個人の選択に介入しなければなりませんから。敗者がまかり間違って幸福になり過ぎてしまわないように、調整しないといけませんから。こういった機械も、必要になってくるんですよ」
いわば緊急停止装置ですよ──科学者は淡々と、説明を続ける。
緊急停止。幸福度の測定不可。未来選択の無効化。ハピネスウォッチの無力化。
そして後悔誘発機の脳部にも、かの時計と同様の回路が組み込まれている。
「まさか……」
「そう、そのまさかです。芦分三科──いまのあなたには、後悔誘発機としての、機械としての機能が、備わっていません」
「そんなことが……」
「社長は、ヒト型に対してずいぶんなこだわりがありましたからねえ。元々怪しげな薬の開発を専門としていただけあってか、自律型後悔誘発機の身体は、その機械的性能面を除いては、ほぼほぼ人間のそれと同じような造りになっているんですよ。だから脳部の回路さえ殺してしまえば、人間と言ってしまって差し支えありません。あくまで形式上は」
科学者はただ事実を述べてるだけで、そこに優しさとか、情とか、憐みの感はない。
幸せにしたいのはあくまで人間だけだという主張も、人間として生まれたもの以外は人間ではないという定義も、これまでの彼女の言葉に嘘はない。例外もない。
強いていうなら、これはただの『実験』だ。
「あとはまあ、あなたがどこまで耐えられるか、といったところですかねえ──彼らの二の舞、三の舞にならないことを、せいぜい祈っておきますよ」
「彼ら、って……」
「さあさ、もういいでしょう。わたしは社に戻って、社長に報告しないといけませんので。『〈機械の〉異常はありません』、と。いやはや、オーエルの仕事は大変ですねえ」
そこで強引に話を切り、意味深な言葉と共に立ち去ろうとする白衣の背中に、なにかを投げかけようとはしたものの、三科の口はうまく回らない。
最適の選択も最善の行動も示さなくなった脳に、ただただ困惑する。
つい先刻まで最新鋭の機械であった身でありながら、百余年前までこのような──己の行動は自身で決定しなければならない、という厳しすぎる条件下で生きていた人類に対して、尊敬の念を抱いてしまいそうになる。
敬意も念も、機械であった頃には持ちようもなかったものだ。
「──最期に、ひとつ忠告しておきます。脳回路に組み込まれていたシステムが消え、感情的に物事を判断できるようになったからといって……」
なにもできず、なにも喋れず、ただただ茫然と立ち尽くす三科に向かって。
振り向いた科学者は、いつも通りの嫌味に塗れた嘲笑を向け、声をぶつける。
「くれぐれも、後悔だけはしないようにしてくださいね」
抑揚のない、淡々とした、どこか品のある冷たい声音を。
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